body and soul 6
梅雨で雨続きだった天気が、久しぶりに晴れ間を見せた。
私はその日の朝、目が覚めてから一番に枕元に置いてあった携帯電話を手にした。
アドレス帳を開いて、そこにあるはずの名前を探す。
それを確認してから、昨日の出来事が夢ではないことを実感した。
「良かった…夢じゃなかった」
初めて教えてもらえた、先生の携帯番号とメールアドレス。
そんなことで確認でもしないと、私は昨日の出来事が全て自分の作り出した幻想だったんじゃないかと疑っただろう。
漏れ零れそうな笑みをなんとかこらえて、私は勢いよくベッドから飛び降りた。
「おはよー」
登校時間まではまだまだ余裕があるけれど、私はテンションが高い余り寝なおすことなんてできなくて階下に下りる。
ダイニングでは朝食を用意してくれていた母親が「おはよう、早いわね」と顔を出す。
部活で毎朝早く出ていく弟の祥太郎は、既にテーブルについてパンにかじりついているところだった。
「姉ちゃん、なんか機嫌いいな今日」
「えっ、そう？…そんなことないよっ」
挨拶を交わしただけで、弟にそう見透かされてしまう。
思わず取り繕うように首を振ったけれど、唇は自然とほころんでしまっていた。
…うぅ、締まりがない…。
「ま、いいけど。朝から暗い顔されるよりは」
「……う」
ここ数日の私の様子を皮肉っているらしく、祥太郎はニヤリと笑ってみせる。
「昨日帰ってくるの遅かったし、なんかいいことあったんだろ？」
恐らく、頭の回転の速いこの子には大体の事態は把握されているんだろう。
前に、少しだけとはいえ余計なことを口走ってしまた自覚もあったから…。
それ以上そこにいたらどれだけ突っ込まれるか分からない。
「お母さん、私今日朝ごはんいいや」
祥太郎の追及から逃れるべく、私はイイ匂いのするダイニングを諦めがちに後にしてすぐに家を出ることにした。
******
まだ大分早い時間だったせいで、高校生はそれほど通学ラッシュではなかった。
それでも朝早いサラリーマンというのは結構いるもので、朝の駅は混雑している。
黒いスーツの中に紛れ込もうとホームに並んで電車を待つ。
うちから学校の駅まではほんの一駅だけれど、それでもこの朝の混み具合にはなかなか慣れない。
ホームに入ってきた電車が、目の前でゆっくりと停車する。
前の人にならって、中から流れ出てくる人たちを避けるために左側へ移動した。
そうしてそれと入れ替わりに、電車の中に一歩踏み入る。
「……」
その瞬間、思わず私は目を見開いた。
その奥に、一つの影を見つけたからだ。
電柱みたいに…高く伸びる影。
後ろからの人の波にも押し出されるようにしながら、私はその影の方へ流れる。
顔を仰向けて、見上げてから声をかけた。
「おはようございます」
私の挨拶に、窓の外を見ていた先生は驚いた顔をして振り返った。
「…早いな」
私と場所を変わってくれようとしたらしく、先生は一歩下がる。
開かないドアの方へ私を押しやってそう呟いた。
「はい…。ちょっと、早く起きちゃったので」
笑いながら言って見上げた先生は、昨日弱さを見せてくれたことが嘘のようにもういつも通りだった。
でも、無口なところは普段のままだけれど、そこに冷たさはない。
ギュウギュウ詰めになりそうな電車内の混雑から、私を遠ざけてくれた優しさが嬉しかった。
「先生も、早いですね。しかも電車なんて」
いつもは車通勤のはずだ。
小さく小首を傾げながら言うと、先生は私の頭上すら通り越して外を見ながら答える。
「家出ようとしたら、車がぶっ壊れた」
「えぇぇっ？」
「エンジンがかからなくてよ」
先生がそう言った瞬間…電車が再び停まった。
反対側のドアが開き、また人の波が流れるようにドッとホームに押し寄せる。
学校のある駅はここなので、私は先生と一緒にその波に乗って出た。
ホームに降り立つと、休む間もなく階段へとそのまま流される。
先生とはぐれないように必死だったけれど、改札を出られたところでようやく我に返った。
邪魔にならない場所で…少し立ち止まってしまう。
このまま、学校まで先生について行っていいものかどうか迷ったからだ。
…それは…非常にマズイんじゃないだろうか…。
だって、私たちの関係が周りにバレたりしたら先生は今度は校長先生の説教くらいでは済まされないだろう。
思わずそう考えてしまった。
「…何してんだ」
数歩先を行った先生が、私が立ち止まってしまっていることに気づいてそう言いながら振り向いた。
怪訝そうな表情を浮かべる先生に、私は困った眼差しを向けてしまう。
「……」
今自分の考えていることを何と説明していいか迷ったけれど…先生がため息まじりにこちらに戻ってきた。
握った拳で、コツンと私の頭を叩く。
「考えすぎ」
「！？……」
私の考えていることなんて全てお見通しらしく、先生はそう言った。
「大体、電車で会った教師と生徒が一緒に学校に向かって何がおかしいんだ。
むしろ担任とその生徒なのに近距離で別々に歩いてる方が違和感あるだろ」
そういえば…たとえば美術の苑崎先生なんかは、毎朝電車で生徒たちに捕まっているっけ…。
「それくらいで誰も付き合ってるなんて思わねぇって」
「…そうですよね…」
先生の言葉に軽く頷いて、私は「なるほど」と納得して返した。
確かに、微妙な距離を開けてお互い話かけずにいる方がおかしいかもしれない。
そう思って、私は再び歩き出した先生の隣に並んだ。
学校までは、ほぼ一本道だ。
途中で急カーブもあるけれど、それも道なりに行けばいいだけだった。
歩き慣れたその道は、だけど隣にいる人が違うだけでとても新鮮に感じられる。
加えてまだ朝早いためにほとんど生徒がいないので、いつもと違って見えた。
「そういやお前、昨日ＣＤ取りに来なかっただろ」
不意に、先生が言う。
「え」と顔を上げると、先生は前を見たままで続けた。
「没収されたＣＤ」
言われて、私は「…あぁ…」と少しだけ目線を逸らして頷く。
「行きましたよ。…行きましたけど…」
昨日のことを思い出しながら、私は弱々しい声で言った。
「…ちょうど、相澤先生がいたみたいだったので…」
そして、その時相澤先生が言っていたことまで思い出してしまう。
『高校生ってやっぱりまだまだ子どもでかわいいですよね』
そんな一言に、自分の胸が抉られるように傷ついたことまで…。
「……」
先生は、私の言葉に「そうか」と呟いただけだった。
…当たり前だけれど…私の胸中になんて気づいた様子もない。
「…あ」
次に顔を上げた時、私は小さく声を出した。
タイミングよく、見知った人影がすぐそこの角から出てきたからだ。
「……」
それほど大きくはなかったはずの私の声に気づき、その人物…相澤先生はこちらを振り返る。
自転車に乗った先生は、いつも学校でスカートに着替えているのかパンツスーツ姿だった。
そういえば相澤先生は自宅が近くて自転車通勤だと…前に聞いたことがあった気がする。
一瞬止まりかけた彼女に、「おはようございます」と私は声をかけた。
「…おはようございます」
本城先生が、私の隣で同じように挨拶をする。
「…………」
だけど、彼女は私たちの姿を認識してから…何の返事もなしに、ぷいっとそっぽを向いてそのまま走り去ってしまった。
「…え？」
思わず眉間に皺を寄せて、私は声を漏らす。
その相澤先生の態度に驚いて…目を丸くしてしまった。
…今…確実にこっちには気づいてたよね…。
…私…先生に無視されるようなこと、何かしただろうか…。
「気にすんな」
全く動じていないらしい本城先生が、私の心の声が透けていたかのようにタイミングの良い言葉をかけてくれる。
「え？」と顔を上げると、先生はゆっくりと歩いたまま苦笑いを浮かべた。
「お前にじゃねぇから、別に」
「……えぇ？」
意味が分からずに更に解せない表情をした私を、先生は横目でチラリと見やる。
手にした鞄を持ち直しながら、小さく首を竦めた。
「俺が気に入らないんだ、気にすんな」
「…先生…相澤先生と何かあったんですか…？」
「まぁな」
言って、先生はその時のことを思い出しているのか、少しだけ子どもっぽく笑う。
どこか自嘲するような笑みであるようにも感じられた。
「『まぁな』って…何があったんですか？」
「…ムカつくこと言ってきたから、ちょっと反論しただけだ」
自分でも子どもじみたことをしたと思っているらしく、先生は詳しくは話したがらなかった。
でも…その一言で何となく辻褄があった気がした。
もしかしたら、私が立ち聞きして傷ついたあの一言に…本城先生が言い返してくれたのかもしれない。
そんな話をしていたら、あっさりと学校に着いてしまった。
門をくぐれば、教員用と生徒用の入口は違う。
「じゃあな」
あっさりと片手を挙げて、先生はさっさとそちらの方へ向かう。
「…はい」
名残惜しいと思ってしまうのは自分だけなんだろうか、と、ふと複雑な心境になった。
どうせ朝のＨＲもあるのだからすぐに会える。…それでも、私は少しでも長く一緒にいたいと思ってしまうのに…。
他の生徒や教師の目もあるから、そんなこと叶わない夢だと分かってはいるけれど。
「あぁ、そうだ」
行きかけた足を止めて、先生は不意にこちらを振り返った。
私の方へ少し戻ってきて、身体を近づける。
内緒話でもするかのような距離で、少しだけ耳元に口を寄せた。
「お前、今週末の夜空けとけよ」
「…え？」
そんなにすぐ傍に人はいないけれど、声を潜めるために身を寄せたようだった。
念のために、声のトーンを落として囁く。
「修司の店のその日のライブに空きが出たんだ。埋めてくれって頼まれたから、ピアノ弾きに行く」
「……っ」
「来ねぇなら別にいいけど…」
「行きますっ。行きたいっ」
力をこめて返事をすると、「そうか」と先生は少し笑った。
そして私の頭に大きな手をポンと置くと、今度こそそのまま歩いて行ってしまう。
触れられた頭に自分でも手をやって…私は嬉しさのあまりボーっとしてしまいながら、しばらくその場で浸っていた。
******
週末の土曜日、お昼ご飯は駅前で智子たちと一緒に食べた。
その時になって、ようやく先生とどういうことがあって…両想いになることができたのかの説明ができた。
３人共自分のことのように喜んでくれたし、由実にいたっては「あのままだったらユキサダをシメてやろうかと思ってたよ」と物騒な ことまで言った。
私と智子と茜は、その言葉におかしくて笑ってしまう。
早めに皆と別れてからは、急いで家に帰った。
先生に誘われた時から、着て行く服をずっと考えていたけれど未だに結論づけられていない。
ベッドの上に何着もの服を並べて、ああでもないこうでもないと焦りながら比べる。
アクセサリーやら靴やらまで考えると、時間がいくらあっても足りなさそうだ。
結果、自分の持っている中で一番無難なのは白いワンピースだった。
理沙さんにこの前借りたものほど短くなく、胸元の露出も少ない。
それにお気に入りのネックレスを引っ張り出してきたところで時計を見ると、もうすぐで先生との約束の時間になりそうだった。
慌てて髪をアップにし、いつもより少しだけ念入りにメイクをする。
奇跡的にそれらを全て終えた時には、ギリギリだけどまだ間に合う頃だった。
箱に入れてしまってあったとっておきのミュールを出して、私は勢いよく玄関を飛び出した。
授業を終えた後に先生からメールが来て、待ち合わせ時間と場所を指定された。
それは私の家からすぐ近くのＣＤのレンタルショップの駐車場。
歩いて行っても間に合う時間だったけれど、私は緊張と楽しみで胸の高鳴りを抑えられず、小走りでそこへ向かった。
行った先に、先生の車はなかった。
まだ時間まで数分あるから…到着していないのかもしれない。
だけどそう言えば、この前の朝エンジンがかからないと言っていたっけ…。
どうするんだろう、と思ったその時、駐車場の奥に先生のものとは別の見知った車を見つける。
グレーの大きな車は、以前に見かけたことがあった。
「なっちゃん…？」
車の前まで行くと、運転席にいたなっちゃんが「よぉ」と顔を出した。
「待ち合わせって、なっちゃんが迎えに来てくれるんだったの…？先生は？」
「今タバコ買いに行ってるよ」
乗れ、と後ろを顎で示されたので、私はそのまま後部座席のドアを開ける。
外から見るより更に広い車内はキレイに掃除されていたので、少しだけ乗るのに緊張してしまう。
シートに座ってスカートの裾を整えると、なっちゃんが先に口を開いた。
「そういや聞いたぞ、ユキから」
「え？」
「良かったな」
何のことを言われているのか、すぐにわかった。
そうだ、なっちゃんにも報告しなきゃいけないのに…忘れてしまっていた。
「なっちゃん、ホントにありがとう」
「ん？」
「なっちゃんが応援してくれなかったら、私ちっとも頑張れなかったよ」
言うと、なっちゃんは声をたてて笑う。
後ろからフロントのミラーを覗き込むと、目が合った。
「お前は一人でも頑張ってたよ」
「…っ」
そんな優しい言葉をかけられたら、泣きそうになってしまう。
鼻の奥がツンとして、気を抜けば涙が零れそうだった。
ちょうどその時、助手席側のドアがガチャっと開けられる。
会話を中断してそちらを見やると、先生が車に乗り込んできた。
「待たせたな」
タバコの箱をポケットに入れてから、こちらを振り返る。
「ついで」
ポンとペットボトルのアイスティーを手渡されて、私は後ろの席でそれを受け取った。
ここからあのジャズバーまでは車でも一時間ほどかかる。
その間に喉が渇くだろうと、気を遣ってくれたようだった。
「ありがとうございます」
お礼を言って受け取ったそれは、まだ冷たい。
ちょうど外が蒸し暑かったので、そのひんやりとした感覚が気持ち良かった。
いつも通り先生はあまり喋らず、私となっちゃんが主にくだらない世間話で盛り上がる中、車は走って行く。
たまになっちゃんに話を振られた先生がポツポツと返すけれど、その一言が逆におかしくて私はずっと笑いっぱなしだった。
１時間なんて、あっという間だった。
前に来たところに車を停めて、なっちゃんと先生の後をついていきながらお店の地下への階段を下りる。
「お、来た。ユキ」
扉を開けて入ったお店の中、隅の方に修司さんが立っていた。
会うのはもちろんあの日以来だ。
「あ、あの修司さん、この前は…」
お礼を言おうとした修司さんが、片手を挙げて私の言葉を制す。
口にくわえていた何かを長い指で取ってから、ニッコリ笑って言った。
「堅い挨拶は抜き抜き。こっち座って、和美ちゃん」
促されるまま、私は修司さんの近くの席に座る。
３、４人くらいが半円形に並んで座れるソファテーブルで、革素材のそれは高級感ある感じで座ると適度に沈んだ。
先生が私の右側に、なっちゃんが左側に自分のタバコやら携帯やらを出して置く。
修司さんは依然壁際に立ったままで、それを見上げてから私は小首を傾げた。
「修司さん…今日は私服なんですか？」
この前お店に来た時のように、バーテンダーの格好はしていなかった。
私服と言っても前に会った時のようにラフな感じではなく、真っ白いシャツにオシャレなベストを着ていて女の子なら歓喜の声を上げそう。
さっきまでくわえていた何かをまたくわえ直しながら、修司さんは再び笑う。
「うん、今日俺ゲスト出演だから」
そんな答えに首を傾げると、修司さんは笑ったまま足元に手を伸ばした。
そこから彼が拾い上げたものは…それまでケースに収められていたらしい、金色に輝いたサックスだった。
「えぇぇっ？修司さんが吹くんですかっ？」
尋ねると、笑ったまま「まぁね」と答えてくれる。
どうやら、くわえていたのはサックスのリードってやつみたいだった。
ストラップを通した楽器にそれを装着しながら、修司さんは先生を見る。
「ユキ、今日お客さんの入り早いからすぐ始めるけど大丈夫？」
「俺はいつでも。お前が大丈夫かよ、チューニング」
「ステージでちょっと合わせる」
…そうか、修司さんだって先生やなっちゃんと同じジャズサークルに入っていたと言っていたから…楽器ができても不思議はない。
サックスを持ったその姿はやたらサマになっていて、思わず見惚れてしまうほどだ。
そう言えば、暗い店内でも周りの女の人たちが修司さんを見ているのが分かる。
前に来た時よりサラリーマンよりも女性客が多いのは、常連のお客さんが修司さんが今日演奏することを知って来たからなのだろうか。
「んじゃあ、行きますか。皆もう先に来てるよ」
顎で修司さんが示した先は、これから先生が上るステージ。
ドラムの人がドラムセットのネジのようなものを微調整し、ベースの人は楽譜をめくって何かの確認をしているようだった。
「おう」
先生は、それを見て組んでいた足をほどく。
スッと立ち上がってから、着ていたスーツのジャケットをソファに放り投げた。
「行くか」
先生と修司さんがそちらに向かうのを見て、ステージに一番近いテーブルに座っていたロングの髪の女性が立ち上がる。
その手には銀色のトランペット。
「今日はクインテットか」
私の隣で、なっちゃんが呟いた。
初めて見るトリオ以外の生ライブに、私の胸はドキドキと早鐘を打ってやまなかった。