dream a little dream of me 11
私が声の限りに叫んだ瞬間、蓮くんの手がピクリと止まった。
少し顔を上げて私の目を覗き込んだその眼差しは、さっきまでの狂気ではなく怪訝な色を浮かべている。
「…本城……？」
やがて蓮くんが、そう私が口にした名前を声に乗せた。呟きは掠れ程度のものだったけれど蓮くんの動揺を十分に表していたように思う。
少し目を丸くした蓮くんが私の首元や鎖骨の辺りから唇を離した。そのわずかな一瞬…まさにその時に、資料室のドアがバンバンと大きな音を立てて叩かれる。
その大きな音に、私だけでなく蓮くんも驚いて思わずそちらを振り返った。
「白石！！？」
本城先生の声だ。私の叫びは誰にも届かないと思っていた廊下にまで響いたらしい。
「先生…っ」
蓮くんが躊躇したほんの瞬き程度の隙に、私は力を振り絞ってドンとその胸を押す。
もがくように宙をかきながら、その扉の方へ急いだ。
その扉にはご丁寧に鍵がかけられていた。蓮くんがしたことなのだろうけれど、入ってきた時には私は気づいていなかった。
そのせいで扉が開かず、先生は向こう側でガタガタと叩いたり揺すったりしている。…このままだと蹴破りかねないかもしれない。
「…先生…」
震える手で鍵をはずし、扉を開く。そこにある大きな影に、私はためらうことなく飛びこんでしまっていた。
涙でぐしゃぐしゃになった顔で見上げた先生は、私を見て目を瞠る。驚いて硬直しているようだった。
だけど私の様子に瞬時で大体のことを察したのか、次の瞬間には顔を上げて資料室の中へ目線を移す。そうしてそこに蓮くんの姿を留めると目を細めて眉を不愉快に顰めた。
「成川ぁ…っ」
抱きとめていた私の肩をそっと押し戻して、先生は珍しく大きな声を上げて床を蹴る。
あまりにも速すぎて私がそちらを振り返った時には、先生は狭い資料室の中で蓮くんの頬に思い切り拳を叩きつけたところだった。
「…先…っ！！！」
今まで聞いたこともないような鈍い音がして、私は思わず声を飲み込んでしまう。
殴られた蓮くんは軽く体ごと飛ばされるように棚に叩きつけられた。唇の端から血が滲み、半ば茫然としたままただ本城先生の顔を見上げている。
先生はというと、そのまま蓮くんの胸倉に手を伸ばした。そうして左手でそこを掴み、右手を後ろに振りかぶる。その表情は斜め後ろからしか見えない私からも分かるくらい怒りに満ちていて、私はここでようやくハッと我に返った。
「やめて、先生…っ」
その右腕に、ぶらさがるようにしてしがみつく。
こんなところで同僚を殴ったとなったら、どんな理由があれ先生だってただじゃすまない。
私のために先生がそんな立場に立たされるのは嫌だった。だから必死でその右手を引きとめる。
「………」
私の意図が読み取れたのか、先生は肩で大きく息をしながらも動作を止めた。そしてやがて「ちっ」と舌打ちをすると、私が掴んだ右腕からフッと力を抜く。
そしてそのまま蓮くんからは、床に叩きつけるように乱暴に手を離した。
スーツの上着を脱いで、バサリと私の肩にかける。自分でも気づいていなかったけれど、さっきの蓮くんのせいで首と胸元につけていたスナップボタンは私の雑な技術のせいか取れかけて使い物にならなくなっていたようだ。
「……すみません」
小さく呟くと、先生は何も答えずにそのまま私の肩を抱いて資料室を出ようとする。思わず最後に蓮くんの方を振り向きかけたけれど、それも先生がグイと私の頭ごと肩を引っ張るので思うようにいかなかった。
結局、蓮くんがどんな顔をしていたのかは分からなかった。
ただ、私の手と足はカタカタといつまでも小さく震えていて、それは先生に手を引かれていてもやむことはなかった。
******
もうすぐ後夜祭も終わる。特別イベントに行った皆はどうしただろう。
私は化学準備室に連れて行かれた後、そこで先生が教室から取って来てくれた制服に着替えた。
「…すみません、着替え終わりました」
着替える間実験室の方に行ってくれていた先生に声をかけると、準備室と繋がったドアが開く。
こちらに戻ってきた先生は、そのままコーヒーメーカーで作っていたコーヒーをカップに注いだ。その間の表情も動作もイラついたように少し乱雑だ。だけど私は知っている。これは、先生が「自分」に腹を立てている時の顔。
「…悪かった」
何も言わなくても砂糖とミルクを注いで甘くしてくれたコーヒーを私に差し出す。その時になってようやく先生はそうポツリと呟いた。
「もっと俺が早く行ってれば…」
そこで言葉を途切らせた先生だったけれど、その続く意味は安易に読み取れた。
勢いよく首をブンブンと横に振って、私は必死にそれを否定する。だけど体は正直で、未だ震えのやまない手はカップを受け取ろうした瞬間もうまくいかなかった。
受け取ろうとして取り損ねたそれを、先生が慌てて持ち直す。そうして吐息まじりに息をつきながらカップをすぐ近くの机の上に置いてくれた。
先生が来てくれなかったら…今頃どうなっていただろう。そう思うとゾッとする。
思いきり掴まれた腕や首はまだズキズキと鈍い痛みを訴えるし、キスをされた唇には拭うように手の甲を押し当ててしまう。
そんな私を先生は黙って見やっていたけれど、蓮くんに何をされたのか問い詰めることはなかった。大体私の様子を見れば分かったのかもしれないし、聞きたくない思いもあったのかもしれない。
代わりに一瞬だけ、私の首元で先生の視線が止まった気がした。それは絞められた跡が残っているからなのか、それとも――。
その時、私の鞄の中から携帯電話の着信音が聞こえた。グループ分けしてあるそのメロディーは智子か茜か由実のものだ。
恐らく後夜祭が終わったのだろう。特別イベントから帰ってきて、ようやく私がいないことに気がついたのかもしれない。
だけど…今の私にはその電話に出る勇気はなかった。今の状況をどう説明すればいいのかも分からなかったし、何より今は誰ともまともに話せそうにない。
このまま無視していたって、心配をかけるだけだとは分かっているけれど……。
「…出るぞ」
そんな私の様子が分かっているからこそ、先生がやがて鞄に手を伸ばしながらそう言った。先生も今の時間に電話をかけてくるなんて智子たちの誰かだと気づいたんだろう。
こちらの返事を待つ前に、取り出した私の携帯のボタンを押す。
「松浦か」
先生が応じた電話の相手は、やっぱり智子だったようだ。だけど向こうは出たのが先生だから当然驚いたようで、「何で！！？」とか何とか大声を上げているのが私にまで聞こえてくる。
それから先生は、私から少し離れた窓辺で智子と会話をしていた。
どうやらこの後クラスで文化祭の打ち上げがあるらしく、後夜祭に来ていない私を探しているようだった。
ミスコンの結果についてもクラスの皆で盛り上がっているらしい。そこに本人がいないのは確かにおかしいかもしれない。
…でも、どうしても今は何もなかった顔をして普通に打ち上げを楽しむ気にはなれない。
震えは止まらないし、蓮くんのあの狂気に似た目を思い返すだけで身が竦む。
「体調悪ぃんだ。休ませたらそのまま帰らせるから、クラスの連中にはお前からうまいこと言っといてくれよ」
先生の言葉に、智子は了承の意を返したようだった。後で…３人にはきちんと説明をしなきゃいけない。そう分かっているけれどせめて今は、先生が気を回してくれてクラスの皆と会わなくて済むことにホッとした。
智子との通話を終わらせた先生は、携帯電話を私の目の前にそっと置いて戻した。
後夜祭が終わったということは、これから校舎内に皆が戻ってくる頃だろう。いつものように帰りのＨＲなんてものはなく自然解散となるけれど、皆一度は教室に着替えやら鞄やらを取りに戻るはずだ。
しばらくは身動きが取れそうにない。今は誰にも会いたくない。
「…雨が降りそうだな」
先刻から急に曇り始めたらしい空を見上げた先生が呟いた一言は、そんな私に暗にここで休んでいればいいと言ってくれているような気がした。
******
一瞬賑やかになった校舎内は、またしばらくしたら静けさを取り戻した。
どのクラスも打ち上げ会場に向かうために、すぐに生徒たちは下校を始めたんだろう。どうせ片付けは後日やることになっている。もう暗くなった空の下、集団で楽しそうに帰って行く声が外から聞こえてきた。
化学準備室で先生は窓の外を眺めたまま無言で、私は未だおさまらない震えを止めようと相変わらず必死だった。言葉はない。視線すら交じることはないけれど、それでも今の自分にはこの空間が一番落ち着ける場所だったに違いない。
今日は色んなことがありすぎた。疲れからか精神的なものからなのか、段々と体も重くなっていく気がする。
鬱々とする気分に比例するように感じる倦怠感は、それでも小刻みな震えを収めてくれるほどのものでもなかった。
蓮くんは…あの後どうしただろう。全く気にならないわけではなかったけれど、でもそうして彼の顔を思い出すとやっぱり足が竦む思いだった。
「…帰り、ます」
ぽつんと呟いたのは、どれくらい先生を付き合わせた後だったのか。
もう夜になって外は真っ暗だった。他の先生たちも帰り始めている頃かもしれない。
生徒たちのいなくなった校舎は静かで、そんな中一番静かなこの室内で先生は「…あぁ」と小さく頷き返した。
「車回してくるから、校門のところで待ってろ」
私の頭にいつものようにポンと手を置いてから、先生はスーツの袖に腕を通す。だけど、その瞬間に１人にされる恐怖がぶわっと胸の奥底からこみ上げてきた。
「…っ、一緒に行きます…」
不安になった私の気持ちを読み取ったのか、先生はポケットから車の鍵を取り出しながら「…そうだな」とだけ呟いた。
生徒のいないだろう今なら、他の先生方に見つかったって「具合の悪くなった生徒を担任が送っていく」光景に映るだけだろう。
後は、蓮くんに会わないことを祈るだけだった。やっぱり今は会いたくない。
結局誰にも会わずに駐車場まで行くことができた。
乗り慣れた助手席に座りシートに身を沈めると、尚更疲れが溢れ出る気がする。
重くなった体に、何故か頭痛まで併発してきた。それを紛らわすように眉を寄せていると、先生が「着いたら起こしてやるから寝てていいぞ」とエンジンをかけながら言う。
「まぁお前の家近いから、すぐに着くけどな」
苦笑まじりに言った先生の横顔は、もういつも通りだった。あの時の激昂した顔はもう見受けられなかった。先生のあんな顔は私でも見たことがない。
自分のためだとは分かっているけれど、先生にあんな表情をさせたくなかった。だからいつもの先生に戻ってくれて、内心で安堵の息を漏らした。
「……」
体が重い。そしてこの後家に帰って、家族と顔を合わせた時に何て言おうと思うと気分も重くなる。
私のこの顔を見て、何も気づかず何も言わないわけはないと思う。でも、今はやっぱり誰とも話したくなかった。…先生以外は。
だけどそう思った時、ふと思い出す。そう言えば文化祭に訪れた祥太郎が、今日は友達と勉強合宿だと言っていた。
そして両親はまた夜勤と出張だったはず…。
帰っても、誰もいない。顔を合わせることはなさそうだけれど、そう気づいた瞬間に別の不安がこみ上げてくる。
暗い家に１人で帰ったら、思い出すのはきっと今日のことばかりだろう。
繰り返し脳内でリピートされるのは蓮くんのあの眼差しと、首元の苦しさ。
蓮くんがまだ何かをしてくるとは思いたくなかったけれど、彼が住む家はたった数軒離れているだけだし、その事実がまた私の中の恐怖心をかきたてる。
「…先生…」
泣きそうになっていた。胸の中の不安と恐怖と、そして息苦しさは辛さしか残してくれない。
車を走らせようとサイドブレーキを下ろしかけていた先生の手を遮って、私は次の瞬間にはその首に腕を回して抱きついていた。カタカタと震える手と腕で、ギュッと強く抱きしめる。
「…白石…？」
先生が、驚いたような声で私の方を振り返る。先生なら…先生のものなら、声が聞けるだけで安心するのに。
だけどだからこそ、１人になった時の孤独感を想像するだけでまた震えが止まらないんだ。
「うち、今日誰もいないんです。真っ暗なところに帰りたくない」
「……おい、お前…熱いぞ！？ 熱が…」
熱？ そうか、だからこんなにさっきから体が重いんだ。
だけどそんなことはどうでも良かった。先生の首に縋りつくようにしたまま、私は必死な思いで言葉を継ぐ。
「先生…お願い、一緒にいて…」
熱のせいか。いつもならこんなワガママ、付き合っている時でさえ口にできない。
そう思いながらもそこまで口にした瞬間、ズズ、と先生にもたれるようにして体が崩れていく気がした。
「おい！ 白石…！」
段々と、先生の声が遠くなる。
そうして落ちていく意識の中でも私は、先生の手を離さないように必死だった。