dream a little dream of me 21
泣くつもりなんてなかった。でも、なっちゃんの話を聞いているうちに頬から顎へと冷たい雫が伝っていく。
半ば茫然と見開かれた目から零れ落ちたそれを、拭うこともできなかった。
「…あいつの考えは分かりにくいんだよ、いつも」
呆れたような声で言いながらも、そう話をしめくくったなっちゃんの言葉はどこか嬉しそうに響いて。
私はまた、頷くこともできずに泣いた。
タクミ先輩の言葉は、本当だった。先生がそんな風に考えていたなんて私は思いもしなかった。
先生の気持ちを推し量るには私はまだ幼すぎたんだろう。大人な先生がどう考え、あの時どんな気持ちで私の手を振り切ったのか…想像しようとしただけで胸がギュッと鷲づかみされるようだった。
自分の想いだけを押し付けられたなら、どれだけ楽だったんだろう。それでもそういう道を選ばないからこそ、「本城先生」であるはずなんだ。
今ならたやすく理解できるそのことを、私はこれまで聞き入れるつもりもなかった。置いて行かれたことで傷ついたから、なんて言い訳にしかならない。なのにそれでもそんな私を責めることもない先生の心の広さに胸が震える。
別れてからの私の身勝手な行動で、先生がどれだけ更に傷ついただろう。
あのウェディングパーティーの時の強引なキスの意味も、蓮くんに対するあれほどの怒りの意味も…今なら嫌というほど理解できるのに。これまでの私は逆に先生を責めて耳を塞ぐことでしか自分を守れなかった。
「…悔しい…っ」
思わず零れた言葉。それは今の自分に対するどうしようもない憤りだった。
それを聞かないフリをしてくれたのか、なっちゃんは特に何も言葉を継がずにただ車を走らせる。
あの時、もっと先生を理解しようとしていたら…。
優しいあの人を、不必要に傷つけずに済んだかもしれないのに。
「なっちゃん、ごめん…近くの駅で降ろして」
手の甲でようやくグイと涙を拭いながら、私はそう言葉を継いだ。
さっきの独り言のように聞き取りにくくはなかったはずだ。なっちゃんはわずかに片方の眉を持ち上げる。
「今すぐ先生に会いに行きたいの」
続けて言うと、微かに笑ったようだった。
「本当なら女子高生をこんな時間に行かせるべきじゃねぇんだけどな」
でも、なっちゃんならきっと分かってくれる。今私がどうしたいのか、どうするべきなのか…。
そしてこのタイミングを逃したら、そう易々と同じチャンスが訪れるかどうか分からないことも。
「まぁ確かに、このまま車でユキの家に行くよりも電車の方が遥かに早いしな。…気をつけて行けよ」
「…ありがとう…っ」
お礼を言うと、なっちゃんは直進しようとしていた先の道路を変更して右折する。
そこはもういつも使っている路線の駅が近くて、私はなっちゃんに挨拶だけすると飛び出るように車から降りた。
家へ帰るサラリーマンや、部活帰り塾帰りの学生たちでまだ駅の中は人が多い。
その人波を縫うようにしてすり抜けながら、私は駅の改札へと急ぐ。
今更先生の真意を尋ねる必要は、最早全くといっていいほどなかった。ただ私は謝りたかったんだと思う。
そうして確かめたかった。まだ全てはやり直せるのか、遅くないのかということを…。
鞄にしまってあった定期入れを取り出し、改札へ向かう。
確かチャージ金額は十分あったはずだし、このままでも先生の家の最寄り駅まで行けるはずだ。頭の中でそう計算しながら走っていたせいか、利き手に定期を持ち直そうとした瞬間思わず手を滑らせてしまう。
「…あ…っ」
手の中から零れ落ちた定期入れが、駅構内の地面に落ちる。
慌ててそれを拾おうとしたけれど、かがんだまさにその時、目の前で視界に捉えていた定期入れに誰かの足が乗っかるのを見た。
「…すみません」
踏んだ張本人も足元の違和感にすぐ気がついたのか、咄嗟に謝りながら視線を落とす。
そうして慌てて拾い上げたそれを私に差し出したけれど、その刹那、互いの顔を見合わせて思わず固まってしまった。
「和美…」
定期入れをこちらに出した態勢のまま、「その人」は私の名前を呼ぶ。…どうしてこんな時にこんな場所で会ってしまうのか。自分の運命というものを本気で疑問視したくなる。
硬直した私とその人を避けるように、周囲の人たちが追い越して行く。波に乗り切れていない私たちは余程邪魔だったに違いない。だけど我に返る間もなかった。
「蓮く…ん」
ただそう呼び返すことしかできなかったんだ。
******
その目を見た瞬間、ぶわっとあの日の出来事が脳裏に蘇ってきた。
思わず痛みや苦しみさえもぶり返してきそうな気がして、私はあの日絞められた首元に手をやってしまう。蓮くんはそれを一瞥したようにも見えたけれど、すぐに目線を逸らしたので確かではない。
「…あり…がとう」
ためらいがちに定期入れを受け取り、ぎゅっと握り締める。あの日のように指先が震えることはなかったのがせめてもの救いだ。あの夜、ずっと傍にいてくれた先生のおかげだろうと漠然と思う。
「…取って食いはしないよ、そんなに警戒しなくても」
下げた頭上に降ってきたそんな言葉に、私は余計に警戒するように定期入れを受け取った手をパッと引いた。
…あんなことをした相手が言うセリフだろうか。何と返していいか分からずに戸惑っていると、蓮くんは微かに笑ったようだった。自嘲するような、そんな笑みだった気がする。
「心配しなくても、どうせすぐ消えるし」
「…え…？」
「あの学校に赴任したのも入院した先生の代わりで臨時だったし、もうすぐまた異動になるから」
「……」
そう言う蓮くんの顔は、さすがに腫れは引いたらしいけれどまだ痛々しいくらいに色が変わっていた。
それからなっちゃんに前に聞いていたように、動作の一つ一つがどこかぎこちない気がする。なっちゃんは恐らく先生がやったのだと言っていたけれど、できれば信じたくなかった。
ただ嫌な予感だけが胸をよぎって、ドクンと大きな音を立てる。
「蓮くん…体、どうしたの」
「……」
すぐには答えなかったけれど、蓮くんはやがて少しだけ目を逸らし気味に整った顔に皮肉な笑みを浮かべる。
「…なんだかバカバカしくなった」
「え…？」
急に言われたその言葉の意味が分からず、私は思わず眉を顰めてその顔を見上げた。
怜悧な瞳は奥深くで何かを嘲るように細められる。それは私か、それとも……蓮くん自身、なのか。
「あんなことをした俺が言うのもなんだけど、あの人も十分正気じゃないと思うよ」
「！？ …それって…」
本城先生のことだ。緊張で喉が渇いて尋ね返す声にはならなかったけれど、聞くまでもなかった。
「何だか全部どうでもよくなった。タチの悪い番犬を飼ってる和美には、興味ないんだ」
唇を歪めて笑う蓮くんは、そう言葉には乗せながらもどこか遠くを見ているようだった。
「じゃあ」
短く言って私の横をすり抜けようとする。短いけれど決別を表すような言葉は、何故か私の胸に刺さる。その理由を自分でも分かっているはずだ。
蓮くんの、今の微笑の裏に隠された本心を感じ取ってしまったからだ。
「……」
ス、と私とすれ違う瞬間、微かに聞こえた気がした掠れた声。
「…ごめん」と、消え入りそうな程度のものだったそれだけれど、私の耳には確実にそれと届いた。
「…っ」
バッと振り返った時には、もう蓮くんはさっきまでの人波に飲まれてしまうところだった。
あの笑みの裏に潜む本心は、後悔と懺悔。ただそれでも、私に面と向かって頭を下げることはしない。
それは反省をしていないからじゃない。私に「赦されるつもりがない」からだ。謝れば私が許さないわけにはいかなくなる。自分のしたことがそんなに簡単に水に流されてもいいことなのかどうか、自分できっときちんと判断しているんだろう。
蓮くんらしい、と言えばそうかもしれない。
正義感の塊で、本当は私を何よりも一番に大事にしてくれていた人。自分の過ちを己で簡単に許しはしないだろう。
あの日あの時の彼が「正気でなかった」と言うなら、きっと今は……。
「……」
目を覚まさせてくれたとしたら、きっとそのきっかけは本城先生だ。
その手段がどんなに人として乱暴で横暴なものだったとしても。
私もバッと踵を返して、蓮くんと反対方向に走り出す。
目的の駅の改札は、もうすぐそこに迫っていた。
******
ただでさえ先生の家の最寄り駅までは結構な距離がある。電車に乗っている時間もそう短くない。
その上、今は一分でも早くたどり着きたい思いが余計に胸の鼓動を逸らせる。ドクドクと脈打つそこに手を押し当てて呼吸を整えながら、長い乗車時間を車両の隅っこの席でやり過ごした。
早く会いたい。ただその一心だった。
なのに、現実はそれほど甘くないらしい。
車でしか来たことはなかったけれど、大体の道は覚えている。目印のコンビニを最後に曲がって、私は何とか迷わずにマンションにたどり着くことができた。
着いた時には、後２０分ほどで２３時になる頃だった。いつもなら怖い夜道も、高揚する気分と必死さで気にとめることもなかった。
そうして先生の部屋の前まで行く。高鳴る胸を押さえ、足早で来たせいで切らした息を何とか整えながらインターホンを押した。通常なら迷惑きわまりない時間帯の来訪だけれど、そんなことを考慮する余裕すら今の自分にはなかった。
「……」
だけど、いつまでたっても返事がない。何度も繰り返し鳴らしてみたけれど、それでも返る声はなかった。
「留守…？」
もう寝てる…なんてことは多分ないと思う。寝ていたとしても、先生はインターホンが鳴れば確実に起きる人だ。
覗き窓から見たここに立っていたのが私だから出てくれないとか…は、できれば考えたくない。嫌な予想をすればキリがなさそうだったけれど、外側に面した窓から中の明かりは一切漏れていないし、扉の向こうからも人がいる気配はない。外出していて帰ってきていないと考える方が妥当なようにも思えた。
「……」
何でここへ来る前に、すぐに電話をしておくことを考えなかったんだろう。大きくため息を漏らしたのは、今の自分の落胆を描いているようでもあった。
こんな時間まで帰ってないなんて、どこに行っているんだろう。
友達と飲み会…ならありえなくはないけれど、今日はその相手はなっちゃんではないし…。
そう思うと私は、先生の交友関係なんてなっちゃんや修司さん以外にほとんど知らない。…そうだ。私が先生のことで知っていることなんて、ほんの一握りのことしかないんだ。
あとは…私が思いつくとしたら、ジャズ仲間と飲みかライブか…。
「……あ」
そう思った瞬間、以前の会話が脳裏をよぎった。学校で相澤先生に釘を刺された時のものだ。
『本城先生、今度またあのビッグバンドでピアノやるんですってね』
あの時、確かに彼女はそんなことを言っていた。それがもしかしたら今日だったのだろうか…。
そう思い当たってみたものの、だからと言ってどうすることもできない。ライブの場所が分かるわけでもないし、たとえ修司さんやメグミさんに聞いて分かったとしてもそこに相澤先生がいるかもしれない以上私が行くわけにはいかなかった。
玄関ドアの前に思わずへたりこむように座り、うなだれる。
本当にライブだとしても、もうこの時間だ。「それ」自体は終わっているに違いない。
とりあえず会いたいという連絡だけでも入れておこうと思い、私はこの時になってようやく携帯電話を取り出した。さすがに１２月頭の夜は冷え込んでいるのと、心細さから余計に寒く感じられてボタンを操作する指が微かに震える。
「……」
お願いだから、出てほしい。そう祈りながら通話ボタンを押す。ギュッと携帯を持つ手に力をこめて、目を固く閉じた。
やがて鳴り出したコール音。だけど…
「…っ」
呼び出し音が一回鳴った瞬間、ブツっとそのままそれが途切れる。
スルーされて留守電に繋がるのや、そもそも電源が入っていなくて繋がらないのとは訳が違う。明らかに「故意」に切らないと、あんな風にはならない。
「…何で…っ」
もしかしたら迷惑な時間だったのかもしれない。誰かと一緒で、出られる状況じゃないのかもしれない。
でも先生だったら…こんな風に乱暴に「切る」なんてことしないと信じたいのに…。
無情な不通音を繰り返すそれを、震える手で一度切った。そして唇を噛み締めた後、私はすぐにリダイヤルボタンを押す。
「お願いだから出て…先生…っ」
今日会わないと、今度こそダメになる気がするのに…。電話すら繋がらないなんてそんなのは嫌だ。
だけど、さっきより最悪なことに、今度は呼び出し音すら鳴らなかった。
直接留守電に繋がったその携帯電話。無感情な機械の女声音が、今日ほど非情に思えたことはない。
「……っ」
完全に拒否されていると、思うなという方が無理だ。
そして今までの私なら、ここで泣きながら帰っていたと思う。だけどさっきからずっと予感がしている。絶対に今日の機会を逃したら取り戻せない「何か」もありそうで…。
唇を噛み締めたまま、グッと私は顔を上げる。泣きそうなのを必死で堪えたまま、座り込んだ態勢で玄関ドアにもたれかかった。
いないなら、待てばいい。
電話に出てくれないなら、何時間でもここで待てばいいんだ。
あの時だって、そうだった。修司さんのジャズバーの前で雨に打たれながら何時間も待っていた時…それでも結局、最後には来てくれたじゃない。
今日の方がまだ状況も精神的にもマシなはずだ。
先生の部屋の玄関ドアが、共用廊下より少し奥まったところにあって良かった。幸い一番奥だから真ん前を通る人はいないし、他の住人には気づかれることなく待っていられそうだ。
繋がらない携帯電話を握りしめ、私はせめて涙が零れないように顔を仰向ける。天井の明るい蛍光灯が、嫌味なほど眩しかった。