春の日に 2
昔から勉強は普通だし、運動神経も人並みだった。
顔だって普通、スタイルも普通。友達だってそれほど多いわけじゃない。
内弁慶な性格が災いして、好きな人ができても告白はできないのでまだ誰とも付き合ったことすらない。
そんな自分だったから、受験で志望する高校を伝えた時に担任は仰天した。
目指したのは県内でもトップの進学校。数少ない友人たちがそこを受けるし、私の兄も通っている。だからこそ憧れの学校でもあったので、迷わずそこを選択した。
死に物狂い…というほどではないけれど、自分なりに受験勉強に励んできたつもりだ。
もしこれでダメでも、悔いはない。受験前最後の模試でもＡ〜Ｅまでの判定で下から２番目のＤだったけれど、もしかしたら一発逆転なんてのもあるかもしれないじゃない。
「大丈夫だよ、亜美だって今まで頑張ってきたんだから」
同じ高校を受けに行ったのは、女友達３人。佳世とメグと茉莉。その中で佳世は私と一番仲がよく、そして一番この高校の合格率が高いと言われている。
「そうかなぁ…でもやっぱり自信ないー」
受験会場に向かいながら、鞄を胸元で抱きしめながらため息をつく。メグと茉莉も、佳世ほどではないけれど模試の結果はＣ判定で十分合格圏だ。
私だけが危ういその状況。ため息をつくなという方が無理だ。
「大丈夫だって！ 亜美が頑張ってきたのうちら知ってるよー」
「春からまた一緒に通いたいよね！ そんで４人で彼氏作るよー」
メグと茉莉もそんな風に言ってくれて笑うから、私も何とか緊張がほぐれつつありやっと笑い返すことができた気がした。
そしてそんな試験会場。早めに着いたせいか、私の番号が振り分けられた教室はまだほとんど人がいなかった。
机に記された受験番号と自分の手にした紙の番号を見合わせ、確認してから一番後ろの席に座る。最後の確認のために一番目のテストの数学の公式をまとめたノートを眺めていると、やがて次々と受験生が入ってきた。
こういう場所では、何故か皆が頭が良さそうで合格しそうに見えてしまう。
できないのは自分だけで、あの人もこの人も受かりそう。そんなのは勘違いだと分かっていても、自分の自信のなさが露呈するんだろう。
だから、極力周りを気にしないようにした。ノートに意識を集中させ、やがて始まった数学のテストに全力を注ぐ。
だけど…そんな中でも気づいたのは、隣の男の子の異変だった。
試験中、カタカタと小さな音がした気がして思わずそちらを盗み見てしまった。
本当にささやかな音だったので、恐らく他の人は気づいていないだろう。その男の子の手が小刻みに震えているようだった。
緊張…？ それとも、この冬の寒さのせい？
確かに教室にはエアコンの類はなく、前方に空気が悪くなりそうな暖房はあるけれど後ろのこの席までを暖める力はないらしい。冷え性の私でも困るくらい、寒い。
だけど、どうもそうではないようだった。
テスト時間が終わり答案用紙を回収された後、チラリと横目で見ると驚くほど彼の顔色は悪かった。
体調が悪いのか…だとしたら熱があっての寒気だろうか。医務室を勧めてみようかとも思ったけれど、赤の他人にそんなことは提案されたくないだろう。
彼だってきっと、今日という受験の日にすべてを賭ける気でいるに違いないのに。
「…あの…」
自分でも無意識のうちに声をかけていた。力なく反応するように上げた彼の顔は、やっぱり冴えない色をしていた。
「顔色悪いけど、大丈夫ですか…？」
小さめの声でそう言葉をかけると、やはり熱があるのか瞬時に頭が回らないらしく、彼は少し黙り込んだ。
その隙に、私は素早くポケットからカイロを取り出す。
「教室寒いし…もし良かったら、これ使ってください」
だけどそれはキャラクターもので、もしかしたら男の子には恥ずかしいものだっただろうか。
「ごめんなさい、そんなのしかなくて…」
取り繕うように慌てて言うと、彼は少しガサガサとした声で「…いや」と初めて言葉を口にした。風邪だろうか。喉も痛めているような声だった。
「そうじゃなくて、これもらっちゃうと君が寒いんじゃ…」
「私、寒がりだからいっぱい持ってきてるんで！ 大丈夫です」
咄嗟にそんな嘘をついた。でも今これを必要としているのは、私ではなく彼だろうと思ったからだ。
だけどそれも、もしかしたら余計なことだったらだろうか。そもそも押し付けのようにカイロを手渡されても普通の男の子は困るんじゃないだろうか。
そう思ったけれど、彼は次の瞬間柔らかく笑みを零した。相当体調が悪いのか、力ない笑みだったけれど。
「ありがとう、助かります」
受け取ってくれながらの言葉に改めて彼を直視すると、ものすごい美少年だったことに今更気づいた。
「…で、どうなったの？ そのイケメンくんと」
受験を終えた帰り道、佳世たちにその話をすると目をキラキラさせて食いついてきた。
「どうもしないよ。カイロ渡して、終わり」
「名前くらい聞けばよかったのに！ お互い合格したら入学後会えるんだよ！？ 運命かもしれないじゃん！」
「あ、でも彼女いそうだったし」
試験を終えるやいなや飛び込んできた女の子の姿を思い出し、私はそう苦笑い気味に続けた。しかも、あんな美形の男の子が私なんて相手にするとも思えない。
どうせ「カイロをくれた人」という認識だけで、たとえ彼が合格しても私の顔など覚えていないだろう。
それに、イケメンは目の保養であって近寄れるものではないと心得ている。
「亜美は何に対しても自信なさそうだなぁ。勉強も恋愛も」
「自分を知ってるって言って」
佳世の言葉に笑いながらそう返した私だったけれど、私は自分のことなんてこれっぽっちも分かっていなかったんだ。
それと同時に、自分の周囲の人間たちのことも。
この少し後に、それを思い知ることになるのだった。
******
合格発表当日。私はまた佳世たちとその高校へ向かった。
試験後、兄にお願いした採点では私はギリギリ合格ラインかどうか、というところらしかった。
でも私がギリギリでもそのラインまで持っていけたということは、もともと成績の良い人たちだって今回の試験はよくできているかもしれない。
ネガティブな発想は相変わらずで、行く途中で佳世たちにまた笑われたものだ。
だけど、時に現実というものは予想とはかけ離れていたりする。
合格者の番号の連なる掲示板に自分のそれを見つけて３人を振り返った瞬間、佳世たちの表情は固まっていた。
「…佳世…？ メグ、茉莉…？」
茫然と掲示板を見上げる３人。そこに彼女たちの番号がなかったのだと、この時やっと気づいた。
私の小さな呼びかけに、佳世はハッと我に返る。こちらを振り返り、やがて引きつったような笑みを浮かべた。
「亜美、うちら校門のところで待ってるよ。合格者は書類もらいに行かなきゃいけないみたいだよ。行っといで」
「…あ、う、うん…」
ごめんね、というのは違う気がした。待たなくていいよ、と返事をするのも。
だからできるだけ急いで戻ってこようと思って、慌てて書類の配布場所へ向かう。
まだ受験生たちは喜び合ったりしていて、まっすぐに書類をもらいに行く人は少なかった。
それでも少し待たされて、私は「早く早く」と焦る気持ちで自分の番号を告げる。
手渡された書類を半ば奪うように受け取って、急いで踵を返した。人の波を縫って校門へ向かう。
「佳世…」
だけどその近くに、彼女たちの姿はなかった。
「メグ、茉莉…！」
もしかしたらトイレに行っているのかもしれない。いや、それよりこの人混みだ。私が見落としているのかもしれない。
中学生のうちは携帯電話を持たせてもらえない。そんな我が家の方針がこんなに悔しかったことはない。
連絡を取る手段もなく、私はしばらくそこで彼女たちを信じて探し続けていた。
結局最後の受験生が帰るまで辺りを探していたけれど、佳世たちは見つからなかった。
その頃には「先に帰ったんだ」という現実を認めるしかなくて、トボトボと元来た道を引き返す。
…でも、仕方ない。佳世たちの気持ちも分からなくはない。
自分にそう言い聞かせながら、とりあえず中学に報告するために向かった。
学校に着いて職員室を覗いたけれど、そこに担任教師の姿はなかった。
周りの先生に尋ねると教室か資料室じゃないかと答えが返ってきたので、とりあえず教室へ先に向かう。
もう既に放課後で静まり返った廊下を歩き、行き慣れた教室の前で立ち止まった。するとその時、中から誰かが泣きじゃくる声が聞こえてきた。
「何で…っ、何でこうなるの…っ！？」
それは間違いなく、メグの声だった。恐らく彼女たちも担任に報告に戻ってきたんだろう。だけどどうやら教室内には３人だけのようで、私はドアに伸ばそうとしていた手を止めた。
「何で一番バカな亜美だけ受かるのよ…っ」
「…ホントだよね…自信ないとか散々言っておいて、結局一人勝ちかよって。あれ絶対内心うちらのことバカにしてるよ」
メグの言葉に、茉莉がそんな風に同調しているのが聞こえる。頭が真っ白になっていくのを感じながらも、私は伝わるはずもないのに一人でブンブンと首を横に振った。
「腹立つよねー。私なんてマジであの学校行きたくて頑張ってきたのに。亜美なんて『皆もいるしお兄ちゃんもいるし』って理由だよ？ 一人じゃ何も決めらんないくせにさ。キモイんだよブラコンが！！」
佳世の声が、いつもより尖って耳を打つ。じわりと涙が浮かんできたのが分かった。今すぐ飛び込んで否定したいのに、それすら叶わない。
「『キモイ』と言えばさ、あの受験の日の亜美の話もウケなかったー？」
「あぁ！ あれもめっちゃキモいよねー！」
「イケメンに浮かれたかなんかしらないけどさ、向こうからしたら見ず知らずの女にポケットの中で暖めたカイロもらってもキモいだけだっつーの！」
「言えてるー。亜美ってそういうとこズレてるっていうか、かわいそうな子だよねー」
泣いていたはずのメグの声が少し勢いを取り戻し、佳世の言葉に同調する。
ズキンと胸をえぐられるような痛みが走った後、私はそれ以上そこにいることができなくて身を翻すしかなかった。
******
結局、私は何も分かっていなかったんだ。
自分のことも、周囲の人間のことも。
必要以上の自信のなさが、他人を傷つけることもある。そしてその他人は、手のひらを返したように態度を変えることもある。
自分はきっとバカ正直で、もっと相手に同調する術を身につけるべきだったのかもしれない。
彼女たちの言うように、受験の日のあの彼も本当は迷惑だったんだろうか。私の行動をキモイと思ったんだろうか。
そんなことにすら考えが思い浮かばなかった。ただ、あの時バカ正直にそうするのが一番良いと思ったからそうしただけだった。
恩を売りたいわけでも、彼がイケメンだったからという理由でもない。多分相手が誰でもそうしていたと思う。
だけどそれを誰もが好意的に捉えてくれるわけではないんだ。佳世たちのように。
もう、どうしていいか分からなくなった。厚意も厚意と取ってもらえないこともある。自分が思ってもみないことで勘違いされて罵られることもある。
私はそんなつもりではなかったのに、それが伝わらない。そんな彼女たちと残り少ない卒業までの間、距離ができたことは言うまでもなかった。
元々数少ない友達は減り、卒業式の後も寂しいものだった。佳世たちが私に声をかけてくることもなくなったし、他のクラスメイトとは笑顔で挨拶をして写真を撮る程度の関係なだけだったから。
こんな私が、高校に行って友達ができるだろうか。そんな不安に駆られても仕方がないと思う。
楽しいことがこれからたくさん待っているはずなのに、ちっとも心が弾まない。
そんな気持ちで迎えた入学式、浮かない顔だったのは言うまでもない。そんな長い式の途中、新入生代表の挨拶があった。
兄に聞いた話では確か、この学校は受験の時に一番成績の良かった人がやるはずだ。
「新入生代表、白石祥太郎」
その司会の先生の言葉に、なんとなく顔を上げた次の瞬間、私は大きく目を見開いた。
「はい」と透る声で返事をして立ち上がったのは、隣のクラスの列にいた一人の男子生徒だった。
それは目を見張るほどの美形で、周りの生徒たちも一瞬ざわついたのが分かる。あの受験の日、私の隣にいた「彼」だった。
…良かった。受かったんだね。そう思うと同時に、あんなに顔色が悪かったのにトップだなんてすごいと感心した。
ルックスも良くて頭も良いなんて、周囲の女子生徒の目の色がもう変わっていることは私にも分かる。
だからこそ、なんだかいたたまれなくなった。あの日の自分の行動が。
もし彼が、佳世たちの言うように私のことを「迷惑」だと…「キモイ」と思っていたら？
目の前で蔑むような目をされたら、きっともう次は立ち直れない。
そう思ったから、壇上での挨拶を終えて彼がこちらに帰ってくる間、隣のクラスの列という近さもあって、私はバレないように顔を伏せているしかなかった。
入学式を終え、簡単なＨＲを終え、その日はあっさりと下校時刻になる。
周囲はもう席の近くで友達ができていたり、中学からの友人がいたりする中、私は相変わらず一人だった。
友達を作ることに臆病になり、積極的になれないこともある。一番に教室を飛び出す勇気もなくて、なんとなく一人で時間を潰してから昇降口へと向かった。
もうその頃には他のクラスもＨＲを終えていて、多くの生徒が帰っていく。その波に乗れば、紛れて一人でいることも気にされずにすみそうだった。
人目ばかりを気にする小心者で、友達もできないなんて救いようがない。自分でもそう思うけれど、今の私には仕方がなかった。
「……」
昇降口で靴を履き替えて、校門に向かう途中。
その少し前で、私は思わず足を止めてしまった。大きな木を植え込んだレンガの囲いに、足を投げ出して座っている一人の生徒に気づいたからだ。
それはあの受験の日の「彼」で、さっき代表の挨拶をしていた「彼」だ。
一緒に受かったかもしれない彼女でも待っているのだろうか。空を眺めたり、たまに下を俯いたりしている。
「ねぇねぇ、あの人さぁ」
私の後ろの女子生徒が、そんな声を上げるのが聞こえた。隣の友達とキャイキャイ話しているのはもちろん彼のことだ。
そんな会話が聞こえてきそうだからこそ、私は顔を伏せて足早にそこをすり抜けることにした。気づかれたくなくて、気づかないフリをする。
だけど…。
「向井亜美さん」
低いのに透き通るような声が、鞄を抱きかかえて小走りに駆け抜けようとした私の横からかけられた。
不意に呼ばれたフルネーム。それが彼の口から漏れたものだと気づいたのは、あの新入生代表の挨拶の時に聞いた声と同じだったからだ。
「は、はい…？」
ビクリと肩を震わせて、そちらを振り返る。その目に映ったのは、想像していたような私を蔑むような表情ではなかった。
ニコリとして、人を惹きつけるような温かい笑顔。
「あぁ、良かった合ってた。受験の日、テスト集める時に名前を見たつもりだったんだけど、あの時熱で頭が働いてなかったから間違えてたらどうしようかと」
言いながら立ち上がる彼は、佳世の言うように私を「キモイ」と罵るような声音ではなかった。
「あ、あの時は…」
余計なことをしてごめんなさい、とでも言うつもりだったのだろうか、私は。思わず口を開きかけたけれど、彼の方が言葉を継ぐのが早かった。
「あの時はありがとう。本当に助かりました」
「……え…」
「熱があって寒気で震えが止まらなくて…正直、カイロもらってなかったら落ちてたかもしれない」
それだけ体調が悪くても新入生代表に選ばれるくらい好成績なのだから、落ちることはなかったんじゃないだろうか。
現実的にそんなことを頭で考えてしまったけれど、純粋に「カイロのおかげ」だと言ってもらえたことはうれしかった。
「…そんな…っ、私、余計なことしちゃったかもって後で後悔して…」
「まさか」
そう言ってまた笑う彼の表情に、嘘はなかった。
もう騙されたくない。そう警戒しても、彼が嘘をついていないことは佳世たちの嘘をついた時の笑顔とは違っていたので分かる。
「で、入学して会えたらお礼がしたくて…良かったらこれ、もらってくれる？」
言いながら彼が鞄から取り出したのは、ラッピングされた小さな袋。中身は分からないけれど、有名な雑貨店の袋だったのでかわいい小物か何かだろうか。
「本当はもらったもの返すべきなんだろうけど、今の時期カイロ返されても困るかと思って」
私が受け取りやすいようにだろうか。そんな軽口を言いながら差し出されたので、「ふふ」と笑いながら私も素直に受け取ってしまった。
「わざわざありがとう」
でもこれを受け取って、大丈夫なんだろうか。彼女はこういうのを気にしない人なんだろうか。
そう尋ねたけれど、彼は「…『彼女』？」と小さく首を捻った。
「え、あの…試験終わって飛び込んできた女の子は…」
抱きついた、とはあえて言わなかった。言いたくなかっただけかもしれない。
だけど彼は、すぐに思い出したのか「あぁ」と何でもないことのように相槌を打った。
「大丈夫だよ。あの子は中学の友達だから」
「友…達…」
「いや、友達っていうのも怪しいかな。結局あの日、俺の体調の悪さなんて全く気づいてなかったから」
揶揄するように言って、彼は苦笑いを浮かべる。そしてふと表情を真剣なものへと戻して、「だからさ」と続けた。
「余計に嬉しかったんだ、カイロ。ありがとう」
「え、ううん…！！」
こんなに素直にお礼を言ってくれる人が今までにいただろうか。恥ずかしいと思うこともなく、正直な気持ちを伝えてくれる人が。
佳世たちでさえ、本心はああなるまで分からなかった。でも、どうしてだろう。彼の言葉は胸にストンと落ちるように響くんだ。
その目が、声が、嘘をついていないことが分かる。
また騙されるかもしれないのに？ そう警戒するような頭によぎる声すら、全てかき消してしまうほどに。
「俺の中学の友達、３人共ここの学校落ちちゃってさ」
立ち上がると私より１０センチほど高い身長で、彼は私を見下ろす。
「同じ学年に知り合いもいないんだ」
そうは言っても、彼ならきっとすぐに友達ができるだろう。いつも多くの人に囲まれていそうな気がする。
「だからさ」
そう言って彼…白石くんは、もう一度明るい笑顔を浮かべてみせた。
「向井さん、友達になってもらえませんか」
彼の声が耳の中で響いた途端、今まで重くのしかかっていたはずの佳世たちの声が消えた気がする。
偽りだらけだったあの日までの「友達」が白く弾けたような感覚に陥った後、私は初めて心から笑い返せたのだった。