Link 〜bitter〜 1
「先生、例え話ですけど、先生の彼女に超イケメンが急接近したらどうしますか」
年度末をもうすぐ迎えるある日。ほとんど前触れらしいものすらなく、急にそんな問いを投げかけてきたバカがいた。
「用事ねぇんなら帰れよ、お前」
呆れたようにあしらって、俺は机の上に広げた資料に目を落とす。今日中に片付けなくてはならない仕事は山ほどある。さっさと終わらせないと、また教頭に嫌味を言われるのは目に見えていた。
「質問してるじゃないですか」
「もっと建設的な質問をしろ」
化学の、と付け足すと、相手は露骨に頬を膨らませた。そうすると年相応よりも幼く見える。肩くらいまでの髪を指先で弄びながら足を組む姿は決して行儀が良いとは言えないが、不思議と辟易するほどだらしなくも見えないところがこいつの性質故だろうか。
「女子高生にとっては建設的かつ重要な質問なんですけど」
「どこが」
ハッと鼻で笑ってあしらうが、引く様子は見られない。そもそもこいつが、引き延ばすようにここに居座ろうとすること自体珍しいことなので本人にとっては只事じゃないのは確かだろうが…。
「先生、彼女いますよね？」
改まった問いに、俺の言葉を汲む意図は見られない。吐息まじりに「まぁな」と短く答えると、重ねるように先刻の問いを繰り返す。
「その彼女に、超〜〜イケメンが近づいてきたら！ 不安になったりしませんか？」
超、のところを強調して問われた瞬間、頭で考える前に白石の顔が脳裏をよぎった。そのふと浮かんだ笑顔に、そんな例え話、状況を想像する価値すら感じられない。
「別に」
そんなもん、気にしてたらキリがない。おそらくこれからもあいつに言い寄る男は多いだろうし、それが所謂イケメンだろうがそうでなかろうが、気にしていたら身がもたないに決まってる。
「本当に？ どんなにかっこいい相手でも？ 名取先生とかでも！？」
どうしてそこで貴弘が出てくるのかはわからなかったが、おそらくこいつにとって考えられる「イケメン」で俺と比較できる年齢の男があいつしかいなかったんだろう。
「お前、何が言いたいんだよ」
貴弘とはそもそも女の好みが被ったこともない。…なんて答えたところで、「そういうことじゃない」と一蹴されるだけか。
はぐらかすように問い直すと、ぐ、と言葉に詰まったように一瞬黙る。
「夏川」
その名を呼んで先を促すと、目の前のそいつ…夏川悠花はもう一度唇の先を尖らせて見せた。
「…先輩が、最近ちょっとおかしいんです」
観念したかのように話し始めた夏川の言葉に、俺は少しだけ片方の眉を持ち上げる。要は恋愛相談か、そう思ったところで再度資料に目を落とした。そしてそのまま応じる。
「准一の相談なら貴弘にしろよ」
夏川は、一つ年上の拓巳准一と付き合っている。しかも准一は貴弘の義理の弟だ。相談ごとならそっちの方が適任だろう。
だが、夏川はあっさりと眉を寄せて首を振った。
「名取先生、すぐ面白がりますもん」
「……なるほど」
それは否定できない。本格的に重大な事態でない限り、あいつは全力で面白がるに決まってる。
思わず納得の意を表したのがいけなかった。夏川はその隙に自分の言葉を滑り込ませる。
「この前、バレンタインがあったじゃないですか」
一か月ほど前のことを振り返りながらの言葉に、俺はもう流すこともできず軽く相槌を打った。
「あの時タクミ先輩、ある女の子のチョコだけ受け取ったんですよね…」
「へぇ」
それほど目立つタイプではない准一だが、夏川がそうだったように実は隠れファンのようなものがそれなりにいることは俺も知ってる。
バレンタイン当日に准一にチョコレートを渡そうとする女がいても不思議はなかった。
「へぇ、じゃないですよ本城先生！」
「だって別に珍しいことじゃねぇだろ。実際去年のバレンタインは、准一には他の女がいたのにお前だってチョコ受け取ってもらったんじゃねぇのかよ」
「…う…っ、なんでそんな細かい事情まで知ってるんですか…」
「噂って怖ぇよな」
「どうせ名取先生でしょうっ」
あながち間違ってはいないが、決めつけたように夏川はそう言った。そしてそれから、「違うんです」と首を左右に振ってみせる。
「先輩、今年はそういうチョコ受け取らないようにしてたんです。私がヤキモチ焼くから」
「なんだ、結局ノロケか？」
「っ、違います！ だっておかしくないですか？ 一切受け取らないのに、一人だけは受け取るって…」
「なんか事情があったんじゃねぇの？」
「事情って、どんな」
「知るかよ、俺が」
チョコレートを受け取る事情？ そんなもん知るわけがない。無理やり渡されたか、受け取らないとどうこうすると脅されたか…。
いや、准一に限ってそれはないか。
浮かんだ想像を全て頭の中で否定して、俺は小さく苦笑いを漏らす。そんな俺を見やってから、夏川はもう一度息を吐いた。
「で、しかも、きっちりホワイトデーにお返ししてたんですよ」
「准一のそういう律儀なとこはお前も知ってんだろうが」
それこそお前だって去年お返しもらっただろ、と付け足すと、夏川は更に表情を曇らせる。
「それだけじゃないんです。ホワイトデーはもう卒業式の後だったのに、わざわざ名取先生を通してまで、ですよ！？」
…なるほど、そこに貴弘も一枚かんでるわけか。冷静にそんな分析をしながらも、俺は頭を掻いた。確かにわざわざ自分が卒業した後、人に託してまで返すものだろうか？
「でもどう考えても准一がお前以外に目を向けるとは思えねぇんだけどな」
半分喜ばせるつもりで言ったが、今のこいつには効果がないようだった。「私だってそう信じたいですけど…」と言葉を濁らせる。
「…あまりにもその相手が魅力的だと、さすがに不安になるじゃないですか…」
肩を落としてのその言葉に、さすがに引っかかる。それで一番最初の問いか。要は夏川から見て、准一が心変わりをしてもおかしくないと思えるほどの美人ということだろうか。
「…誰だよ、その女」
尋ねて答えを得ても、どうしてやることもできないはずだった。だから大した意味はない。ただ、なんとなく問い返してしまっただけだ。
答えに予想も期待もしていなかった。構えることすら。
「本城先生のクラスの、白石さんです」
だからこそ、返ってきたその答えに一瞬目の前がくらんだ気がしたほどだ。
「…っ」
「だ、大丈夫ですか？」
ゴン、と頭を机で打ちそうになった俺に、夏川が慌てて声をかける。寸でのところでこらえて、なんとか態勢をもちなおした。
「……頭いてぇ」
物理的にではないはずのその痛みに眉を顰め、俺はこめかみの辺りを指で抑える。そしてその瞬間に、約一か月前の白石とのやり取りを思い出した。
『ねぇ先生、そういえばバレンタインに、タクミ先輩にもチョコ渡していいかなぁ』
白石は例年、世話になった連中にも配ることにしているらしい。今年で言えば貴弘や修司もそうだ。准一には色々と考えるきっかけをもらったこともあり、恩を感じているようでもあった。
それは俺も同じだったので、反対するつもりもなかった。
『いいんじゃねぇの、別に』
『先輩甘いの嫌いそうだけど…まぁいっか。こういうのは感謝の気持ちが重要だし』
それくらいの軽い気持ちだったんだ。白石も、俺も。そして恐らくそれを受け取った准一の方も。
ただそこで、確かに夏川のことまでは考慮していなかった。気遣い屋の白石にしては珍しい。そしてそこに気づかず止めなかった俺も悪い。
いや、そもそも何で准一は夏川に何も話してないんだ。普通なら、准一と白石が接点を持つはずがない。それなら最初からあいつが俺らの事情を全部夏川に話しておけば…。
そう思いかけたが、やめた。准一がそもそも、いくら恋人の夏川にでも他人のことを…しかも教師と生徒が付き合ってるなんてこと、自分から話すはずがない。
「…先生？」
急に黙りこんであれこれ考え巡らせている俺を、夏川が覗き込む。しばしうなだれていた俺は、不思議そうに見つめてくるあいつに心底申し訳ない気分になった。
一連のことに関しても。それと、さっきまで真面目に取り合わずに受け流そうとしていたことも。
「…お前、今日時間あるか？」
もう放課後だ。予定があったらそもそも帰っていたはずだろう。分かってはいるが確認すると、夏川は状況を飲み込めない表情のまま頷いた。
「とりあえず、この後貴弘の家に来いよ。あいつには俺から話つけとくから」
「…どうしたんですか、急に。それに今までの話、名取先生が知ったら大笑いしますよきっと」
「いや、大丈夫だ」
夏川からしたら要領を得ない答えだっただろう。だが誰が話を聞いているか分からないこの学校で全てをさらけ出すわけにはいかないし、このままごまかすのも人としてどうかと思う。
首を捻りながらもとりあえず「はーい」と返事をして退室するその姿を見送ってから、俺は大きく息を吐いた。
さて、どう話を切りだすか…。そもそも、自分の話をするのは得意ではないのに。
この後のことを考えると本日何度目かのため息が重苦しそうに化学準備室の宙を舞った気がして、再び苦笑いが零れた。