My Way 1
その年の夏休み後半、急に親戚に不幸があった。
それほど近い人でもなかったけれど、両親が行かないわけにはいかない。家族総出で仰々しく行くのもどうかということだったので、２人は俺たち兄妹を残して飛行機の手配をする。
「直、３日間お店任せて大丈夫かしら」
明後日から３日間急な不在ということで、母は自宅の１階部分で経営している花屋の心配をしていた。
確かに２人共がいないのは痛手だけれど、ベテランの従業員もいるので何とかなるだろう。
「あぁ、大丈夫だよ」
そう答えたはずだったけれど、確認してみると夏休みということもあり長期休暇を取っているアルバイトも多かった。
３日間必ず出てくれそうなのは大学生と高校生が一人ずつだけ、だ。
「回るか、これ…」
シフト表を眺めながら、思わず呟く。
自分に補習や部活がなくて良かった。死に物狂いで働けば何とかなるだろうか…。
ただ、猫の手でも借りたいのは事実だった。
「夏川、うちで３日間バイトしない？」
考えた挙句にそう話を持ちかけた相手は、同じクラスの夏川悠花だった。
彼女も部活をやっていないので、一番声をかけやすかった。一真は夏休み後半はアメリカの家族の下へ行ってしまったし、 小野寺は部活で部長を務めているので忙しい。片桐に至ってはもうすでに他でバイトをしているので、声をかけても無駄だろう。
『お花屋さんでバイト？ 楽しそう。でもいいの？ 私にできるかな…』
「簡単なことだけ手伝ってもらえれば、十分助かるよ」
携帯電話の向こうからの声に笑って応じながら、俺はシフト表を見据えながら安堵の息を漏らす。
夏川なら信頼もできるし、混んでいる時に笑顔で接客してくれるだけでも助かるだろうという自信もあったからだ。
『最近みんな忙しそうだったから、ヒマだったんだー。ありがとう』
逆にお礼を言って、夏川は笑った。そう言えば夏休み前から付き合いだしたタクミ先輩とは、向こうが受験生という こともあって彼女なりに会う回数も自制していると言っていたっけ。
「タクミ先輩、やっぱり忙しいんだ？」
思わず聞いた俺に、今度は向こうで苦笑いを漏らしたらしい。
『先輩は気にしなくていいって言ってくれるんだけど、やっぱりね…。負担になりたくないから、ちょっとは遠慮してるつもり』
「つもり」を強調するので、思わず俺も笑ってしまった。
「じゃあ、明後日から３日間よろしく」
『うん。明日登校日だから会うよね？ その時に詳しく聞かせてー』
終始相変わらず明るい声で、夏川はその通話を終わらせた。
翌日は登校日で、約２週間ぶりに学校に行った。
簡単な朝礼とＨＲを終え、後は帰るだけなのにどうして「登校日」というものがあるのか未だに理解できない。
１０時過ぎには解散になり、生徒たちは散り散りに部活に向かったり下校したりだ。
「ぎゃ、やばい、化学の課題出し忘れてた！」
登校日に夏休み中の課題を提出、なんて鬼のような教科もある。
帰る間際に化学のノートを出し忘れていたことに気づいた夏川が、叫ぶように妙な声を上げた。
「行っておいでよ、待ってるから」
そんな夏川に、もう誰もいなくなった教室ですっかり帰り支度を終えていた片桐が言う。
「うん…ごめん、すぐに戻ってくる」
タクミ先輩は今日は用事があるらしく、俺たちと一緒に帰る約束をしていた彼女は、言うなり弾丸のごとく教室を飛び出して行った。
「……さて」
廊下側の一番後ろが俺の席だ。その前の椅子に座っていた片桐は、笑顔で夏川を見送ったと思ったらそんな声と共に瞬時に表情を変えた。
「…な、何？」
その形相が見たこともないくらい怒っていたので、俺は思わず聞き返しながら少しだけ体を後ろへ退く。
「向井、あなた何考えてるのよ」
「何…って…？」
何のことを言われているのか分からず、俺は思わず一呼吸分置いて片桐を見つめ返した。
長い髪をうっとうしそうにかきあげながら、彼女は不機嫌そうに眉を寄せる。
「ハルカに聞いた。明日から３日間バイト頼んだんだって？」
「え？ …あぁ、うん。ダメだった？」
どうして急にそんなことを言われるのか分からず、俺は小さく首を捻った。
嫉妬…なんてするタイプじゃないか。片桐の意図が読めない。
「やめさせて」
俺の胸中の疑問になんて答えてくれるはずもなく、片桐はバッサリとそう続けた。
「何で？ 夏川、バイトもやってみたいって言ってたしちょうどいいかと…」
「そういう問題じゃないの。あなたの両親がいないってことが問題なのよ」
「…？」
本気で意味が分からずに眉を寄せた俺に、片桐は盛大なため息を吐き出す。…本気で呆れたような、何かを諦めたかのような吐息だった。
「お父さんとお母さんがいなくて、あなたとバイトだけでお店を任されてるんでしょう？ そうしたら…当然あの人、いるわよね？」
「あの人…？」
その言葉を復唱した俺に、片桐は言いたくなさそうに唇を一瞬だけ噛んだ。
「バイトの…寺原さん」
出されたその名前に、俺は「…あぁ」と頷きながらも尚更首を傾げ返した。
寺原さん…というのは、大学生のバイトでうちの店では高校生の頃から通ってくれるベテランだ。
花に関する知識も豊富で、男性なのにお客に対する気づかいも人並み以上だ。だから、うちの両親も俺も彼を相当頼りにしている。 今回の件でも、彼がいてくれるからこそ３日間なんとかなるだろうと思っているくらいだ。
「あの人がいるところに、ハルカを行かせたくない」
そうきっぱりと言い切った片桐は、不愉快そうな表情はそのまま机に置いてあったお茶のボトルをまるで酒のように呷った。
「何で…？ 寺原さんに何か問題ある？」
少し遠慮ぎみに尋ねたけれど、その問いで片桐の機嫌の悪さは最高潮に達したようだった。俺の目の前にペットボトルをドンと乱暴に 置き、睨み上げてくる辺りが本気で怖い。
「問題どころじゃないわよ」
何かを思い出しているらしく、忌々しそうにそう言った。
「前に、何度かお店に行った時…向井が配達でいない時とか、ご両親がちょっと目を離してる隙とか…あの人うっとうしいくらいに近寄ってくるのよ！」
俺からしたら初耳な言葉に、思わず目を見開く。
片桐の話をまとめると…どうやら何度か店内や店の前で俺を待っていた時、その度に声をかけてきたらしい。…それも… かなりうっとうしく思うほどの軟派な感じで。
見かけはかっこいい人だと思うけれど、どちらかというと硬派で真面目なイメージだったので俺は思わず目を丸くした。だけど、片桐が そんなことで嘘をつくはずもないと分かっている。
「しかも下品！ 『直くんとぶっちゃけどこまでいってんの』とか『俺ならテクニックあるからもっと華江ちゃんを満足させられるよ』とか、気持ち悪いのよ！」
「……そんなこと言われたんだ…」
頭を抱え込みたい心境にかられながら、俺は思わずうなだれる。…いや、寺原さんの言葉の復唱だとは言え、 片桐の口からそんな言葉を聞かされるのも衝撃的だったんだけど。
「ちなみに、私にだけじゃなくてそこのお店のバイトの子にも気持ち悪いこと言ってるみたいよ？」
「……」
「タクミ先輩にだって悪いじゃない！ とにかく、ハルカにバイトはやめさせて。そんな気持ち悪い軟派男のいるところで３日間も働かせられない！」
「…それは……」
…そう、かもしれない。
その話が本当なら、今までそんなことを知りもしなかった俺や両親にも問題があるし、たとえ短期間とは言え夏川に働いてもらうのは申し訳ない。
そう答えようとした、その時だった。
コンコン、と小さくすぐ傍のドアがノックされる。
こちらの返事を待つ間もなく、次の瞬間にはそれが開かれた。…そもそも教室だからノックはいらないはずなんだけれど、 俺たちの会話が廊下まで聞こえていて、それを遮ってしまうことへの遠慮だったのかもしれない。
「…もしかして、先に帰った？」
開いたそのドアの向こうにいた人物は、教室内を少し見渡してから俺と片桐にそう尋ねた。
「…タクミ先輩…」
さっきまでの話が話だっただけに、何となく気まずくて俺は息を飲んだ。
だけど先輩の方は気にしていないのか、小さく首を傾げている。さっきの問いの答えを待っているんだと気づいて、俺は「あ、あぁ…」と戸惑いながら首を横に振った。
「夏川なら…今化学の課題を提出しに行ってますけど…」
「あぁ、そうなんだ。じゃあこれ渡しておいてくれる？」
言って、先輩は俺に袋を差し出す。確か前に夏川が持っていた袋だと思いながら受け取ると、中身は本か雑誌なのか少し重みがあった。
「渡してくれれば分かるから」
「あぁ、はい…あ、でももうすぐに戻ってくると思いますけど」
会って自分で渡してあげた方が、夏川も喜ぶんじゃないだろうか。そう思って言ったけれど、タクミ先輩はいつもの無表情のまま首を振った。
「急ぎの用があるんだ。それはあの子も知ってるから」
『あの子』ね…。ふと、タクミ先輩は夏川と２人の時は何て呼んでるんだろうなんて疑問が胸に浮かんだ。
好奇心からでしかない疑問だったけれど、そう言えばタクミ先輩が夏川の名前を呼ぶのを聞いたことがないと気づいたからだ。
「じゃあ」
それだけ言い置いて踵を返そうとしたタクミ先輩に、俺の目の前で片桐が「待ってください」と声をかける。
「？」
振り向いたタクミ先輩は、忙しいと言っていたはずなのに迷惑そうな顔もせず…ただ、相変わらずの無表情だった。
「さっきの…向井と私の会話、聞こえてましたよね？」
単刀直入に聞く辺り、片桐の性格だと思う。それなりに世渡りのうまい性格なはずなのに、夏川のことになると猪突猛進というか何というか…。
片桐にそう問われて、タクミ先輩の方は別に隠す様子もなく「あぁ、うん」とだけ短く答える。
「聞いてたなら…何か言ってくださいよ！ 先輩だってハルカが向井の家の店でバイトするの反対ですよね！？」
まるで猛獣がエサに食らいつくかのような勢いでタクミ先輩を見上げて意見した。いつも冷静な片桐らしくないセリフだ。
「……」
しばらく片桐を見据えていた先輩は、やがてフッと息をついた。
「本人はバイトができるって喜んでるから、別にいいんじゃないかな」
「…っ！？ 心配じゃないんですか！？」
「『何』が？」
何、を強調して言われて、片桐は珍しく頭にきたようだった。
「だって、自分の彼女がそんな軟派な男の傍に行くんですよ！？」
「それも全部話した上で彼女がそれでもバイトしたいって言うなら、別にいいと思うけど」
色素の薄い髪を揺らして、タクミ先輩は小さく首を傾げる。
「…っ、話になりません！」
「じゃあ、また新学期に」
片桐の言葉でこの話は終了だと理解したのか、タクミ先輩は何食わぬ顔で俺と片桐にそう言って教室を出て行ってしまった。
「クールだなぁ…」
「頭おかしいんじゃないの！ 普通心配するでしょ！」
感心まじりの俺の感想にかぶせて、片桐は本気で怒っているようで肩を上下させる。
確かに、片桐が男で夏川の彼氏だったら心配で仕方ないんだろう。……いや、俺だってもし自分がタクミ先輩の立場だったら…。
「とりあえず、夏川にはそのまま話すよ」
その話を聞いたら、俺もさすがにバイトを頼みづらい。だけど一度承諾してもらっている以上、本当のことを話さずに「やっぱりバイトはいいや」と 断るのは人としてどうかと思う。
「……」
不機嫌そうに顔を歪めた片桐は、夏川が戻ってくるその時までそれ以上一言も発しなかった。