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「ゆーが、今日ずっと暗い顔してない？」
「正確に言うと午後からか」、そう付け足して、美羽は女子バスケ部の部室でジャージを脱ぐ。
汗を拭いて制服に着替える彼女の隣で、優雅は制汗スプレーを手に「え」と目を丸くした。
「…そう？」
「うん。何かあったの？」
引っかかっているのは、昼休みのライのあの態度だ。結局あれから話もしていないし、どうして珍しくあれほど怒ったのか問うこともできなかった。
そもそもライは沸点が低い方ではあるけれど、あんな風に怒りを露にすることは稀なのだ。ましてや、恐らく彼にとってはどうでもいいだろう同級生の女子相手に。
「機嫌でも悪かったんじゃないの」
ブラウスの胸元でリボンを結んだ美羽は、かいつまんだ優雅の説明を受けそう呟いた。
「…だといいんだけど」
吐息まじりに優雅は自分も手早く着替えにとりかかる。結局こんなことばかりを考えていたせいで、今日の練習は全く身に入らなかった。怪我をしなかったのが奇跡だとも思う。
「優雅ー、私バイトあるから先に帰るよ」
先に着替え終えた美羽は、そう言って鞄を手にロッカーを閉めた。
「ん。おつかれさまー」
スカートのホックを腰の辺りで止めながら、優雅は気だるそうにそれだけ答えた。
美羽よりかなり遅れて支度を終えるころには、もう他の部員たちは先に帰ってしまった。
最後に部室内の点検をし、外に出る。体育館横の部室長屋は、きっともうすぐ警備の人が一回目の見回りに来るだろう。
漠然とそんなことを考えながら部室のドアに鍵をかける。ちょうどその時、すぐ隣のドアがキイと音を立てて開いた。
何気なくそちらの男子バスケ部の部室を振り返り、目を瞠る。そこから出てきたのはライ本人で、優雅と同じく他の皆はもう帰ってしまった後なのか鍵を手にしている。
「……」
どう声をかけていいか考えているうちに、ライの方も優雅に気づく。そして鍵を手の中で一度翻してから鍵穴に差し込んだ。
「なんだ、お前も最後か」
施錠しながらそんな声をかけられ、優雅は改めて目を見開いた。
まるでライの声は、昼間のことなんて何もなかったかのようにいつも通りだったからだ。
「う、うん」
返事をしながらも様子を伺うようにこっそりとライの横顔を覗き込むけれど、やはり普段通りだと思う。昼間のあれは何だったのか。そんなことを思いながら、離れるのも不自然なのでそのままライと並んで鍵を返しに職員室へ向かった。
「優雅、ちょっと帰り付き合えよ」
鍵を定位置に戻した時、隣のライはこちらを見ないままそんな呟きを漏らしたのだった。
「何これ」
促されるまま付いて行ったら、優雅のお気に入りのドーナツ屋に連れて行かれた。
先に席に座っているように指示されたと思ったら、レジから戻ってきたライが優雅の目の前に差し出したのは３個のドーナツとドリンク。
「『何』って、見て分かんねーのか、お前の頭重症だな」
「そうじゃなくて…！」
全部優雅の好みにぴったりなところが流石だ。イチゴチョコでコーティングされたものと、クリームたっぷりのものと、もちもちの食感のもの。
だけど、問題はそこじゃない。こんな数をドンと出されて、全部平らげる自信がない。
それほど少食ではないつもりだけれど、この後家で母親が夕飯を作って待っているのに。
「いやいやいや、食べきれないからライも食べてよ」
「俺こんな甘いもん食いたくねーし」
「チョコとクリームは私が食べるから、せめてこれくらいは食べなさいよ！」
ライが甘すぎるものが好きでないことはよく知っている。シンプルなドーナツやケーキくらいは大丈夫だろうが、こんなにゴテゴテに甘さいっぱいでコーティングされたものはだめだ。
だから一番マシそうなドーナツを差し出して、優雅は自分もドーナツを一口食べた。
優雅に渡されたそれを受け取って、ライはじっと彼女を見据える。その視線に気づいて「…何？」と問えば、ライは「…いや」とわずかに目線を逸らした。
「…悪かったな、昼間」
ポツリと囁き程度の声で言う。思わずそれに目を瞠って、優雅はドーナツを手に固まってしまった。
「…最近寝不足だからか、ちょっとイライラしてた」
「……珍しいね」
睡眠不足のことではなくて、イライラしているからと言って「八つ当たり」をすることが、だ。
責める意図は全くなかった。ただ本当にそんなライが珍しいと思っただけだ。
「気にしてないよ。ライにしては珍しい態度だったけど、機嫌が悪くて当たっちゃうことなんて普通の人ならよくあることだし」
「気にしてないわけねーだろ、お前は絶対気にしてたはずだ。メソメソメソメソ…」
「っ、メソメソはしてない！！」
そこは強く否定したが、前半は反論の余地がなかった。ライには全てお見通しなのだ。優雅の性格上、何をどう考えるのかなんて。
ずるい、と思うことがある。自分は、ライの考えてることなんて全部が分かるわけではないのに。
「…それで…もしかしてこれがお詫びの品なわけ？」
イチゴチョコの甘さを口いっぱいに味わいながら、優雅は首を傾げる。ライは肯定しなかったが、外れてもいないだろう。
こういうところが律儀だとも思うと笑みが零れた。
答える代わりにライは、テーブルに頬杖をついた態勢でそのまま外を眺めていた。
そしてやがて、「あのさ」と改めて呼びかける。
「ん？」
今日の午後はライの態度が気になって暗くなってしまっていた。その不安がすっかり払拭された今、笑顔でドーナツを頬張っていた優雅は首を捻って短く返事をする。
そんなこちらを向き直りながら、ライは言葉を継ぐ。
「土曜の午前、お前も付き合わねぇ？」
言われた瞬間、何のことか全く分からなかった。しかしだんだんと優雅の頭の中で今までの情報が繋がっていく。
…そうだ、確か土曜日の午前中、ライはソウと物件探しに行くと言っていたはずだ。
そう思い出した瞬間、優雅は思わず大きな声を上げてしまう。
「えぇ！？ で、でも、私が一緒に行くのはおかしいでしょ！」
「そうか？ そんなこと言ったら、イイ年した男が弟連れて不動産屋に行くのがそもそもオカシイだろ」
「…え…いや、でも私は他人なわけだし…」
ソウに会えるのは嬉しい。ソウの住むかもしれない家を一緒に選べることも。だけど手放しで「行く」と即決はできなかった。
「ソウちゃんが嫌かもしれないし…」
「兄貴がお前を嫌がるとか、ありえねぇから」
ストローでコーラを飲みながら、ライは何食わぬ顔でそう言う。
「それに、優雅の家の近くで物件選ぶんだったら土地勘あるお前がいた方がいいだろ」
「……」
ライの考えは分かる。自分のためにそんなことを提案してくれているのだ。
優雅が、ソウと少しでも一緒にいられるように…。
「いいのかな…」
「決まりだな。土曜の午前中に兄貴と迎えに行く」
いつも通りの笑みを浮かべてそう話をしめくくったライを、優雅は正面から見据えていた。だけど、その笑みは「いつも通り」なはずなのに、優雅にはそう見えなかった気がした。
******
土曜日の朝はソウに会えることが楽しみで、かなり早く起きてしまった。
事前に服は選んであるし、髪のセットとメイクに気合を入れても約束の時間より早めに全ての支度を終えた。
「おはようございまーす」
時間を持て余しすぎて、ライとソウの家を訪問してしまう。まだパジャマ代わりのスウェット姿だったライは、そんな優雅を見て呆れたように口を開けていた。
「楽しみすぎて突撃訪問してくるとかありえねぇだろ。そっち行くって言ったじゃねぇか」
「だって！ 家にいても落ち着かないんだもん！」
「おはよう、優雅」
玄関でライと言い合っていると、リビングの方からソウが顔を出す。どうやら昨日は仕事を終えてからこちらに帰ってきて泊まったようだ。こちらはライと違って、もうきちんと私服に着替えている。
「ソウちゃん！ おはよう！」
目の前のライをドンと突き飛ばし、優雅はニコニコと笑顔で挨拶する。それを見てソウが柔らかく笑うものだから、優雅の胸は高鳴りっぱなしだ。
「今日はごめん、付き合わせちゃって。ライに無理やり頼まれたんじゃない？」
「ううん、大丈夫！」
大きく首を振る優雅に、隣でライが「…いてぇなお前！」と喚くが気になどしていられなかった。
「ソウちゃん、私ね、ネットでちょっと良さそうなところないか調べてきたの！」
ライの準備を待ってから家を出た時、優雅はそう口にした。
鞄の中からプリンタで印刷してきた紙を出しながら言い、３人揃ってエレベーターに乗り込む。
ソウに渡そうと思ったそれだったけれど、ライが先に優雅の手の中からひったくるように奪ってしまった。
「…お前…真面目だな…そんでどんだけ楽しみだったんだ」
「ありがとう優雅」
呆れたように言うライに続いて、ソウは素直に礼を口にする。それにまた赤くなる優雅を横目で一瞥してから、ライは優雅が印刷したというその紙をパラパラとめくる。
「つーかそれにしても、広い部屋ばっかり選んでんじゃねぇか。必要ねぇだろこんなに」
「えっ、だって家は広い方がいいと思って…」
「男の一人暮らしなんて１Ｋで十分なんだよ」
ばーか、と続けるライに、優雅は思わず唇を尖らせた。そんな２人を見てソウが笑うものだから、余計に恥ずかしくなって面白くない。
そんなやり取りをしながらエレベーターで１階まで下りると、そのまま３人はエントランスホールへ向かった。
見つけてきた物件情報にひとつひとつダメ出しをするライと、それに反論する優雅。そんな２人を楽しそうに眺めていたソウがふと足を止めたのは、エントランスを抜けてマンションの外に出た瞬間だった。
「ソウちゃん…？」
立ち止まってしまったソウを、優雅が不思議そうに振り返る。ライも眉を寄せてそちらを見た。
そして、ソウが目を見開いて立ち止まっていることに気づく。その視線の先を思わず２人も追ってしまった。
「…え…」
そしてその目に映ったのは、見覚えのある黄色の派手な車。
優雅がライとソウを交互に見比べるように振り返った時、ちょうどタイミングを計ったかのようにその車のドアが開いた。
運転席から降り立ってきたのは、先日優雅も見た「ソウの会社の先輩」だった。
ただあの時は車に乗っているところを見かけただけだった。降りてきて全身を見据えると、スラリとしたスタイルの美人だ。
思わず女の優雅でも見とれてしまいそうで、その迫力に息を飲んでしまった。
「木本さん…どうして…」
目を見開いたソウが、少し戸惑ったように声をかける。その呼びかけ方からして、優雅は自分が懸念したように２人が深い仲ではなさそうだということを空気で感じ取った。
でも無条件にそのことを喜べない雰囲気なのはどうしてだろう。
「今日物件見に行くって聞いたから、来ちゃった」
弾んだ声は優雅より低く、大人の女の「それ」だった。そして流すような視線で彼女は３人を見渡す。
「…木本さん、いくらなんでも…」
「誰も『一緒に行く』なんて言ってないでしょ」
何事かを言いかけたソウの言葉を、木本理子は不機嫌そうに遮る。そしてそれから、ニッコリ笑ってライを見上げた。
「ライくんを誘いに来たの」
「！！？」
そんな一言に、ソウが珍しく表情を変えて絶句する。ライはというと無表情で彼女を見下ろしていたけれど、優雅はその状況を飲み込みきれずに茫然としているしかなかった。
それを面白そうに見やってから、理子は細い指でライの腕に触れた。
「私とデートしない？ お兄ちゃんや優雅ちゃんと物件探しに行ったってつまらないだけでしょ」
「……」
「それとも、あれ？ キミもやっぱり極度のブラコンなわけ？」
半ば挑発するような言葉に、ライがピクリと眉を持ち上げる。だけど代わりに声を上げたのはソウの方だった。
「木本さん…！ この前俺が言ったこと忘れたんですか！」
「うっさいわね！ あんたこそ私の言ったこと忘れたの！？ 私が気に入った男にどうアプローチしようが私の勝手だし、そもそも『お兄ちゃん』の出る幕じゃないのよ！」
ソウに言葉を叩きつけ、理子はキッと睨み据える。だけどその一瞬後には、表情を戻してライに向き直った。
「近くのコンビニで、１０分だけ待ってるわ。気が向いたら来て」
何がどうなっているのか、優雅には全く分からない。
何となく感じ取ったのは、彼女が気に入っているのはソウではなくてライだということだけで…。
胸がザワリと音を立てる。
「……優雅」
それまで黙っていたライが、やがて理子が車で走り去るのを見送ってから低い声で呼んだ。
顔を上げた優雅は、心の中で同じ言葉を繰り返す。
行くわけが、ない。ライには行く理由がない、と。
彼女がライのことを気に入ったと公言するに当たって、どんなことがあったのかなんて優雅は知らない。でも、ライはこんな誘いに乗るわけがない。
なのに…どうしてこんなに不安になるのか。それは隣にいるソウが自分と同じような顔をしていることからも増長させられる。
「これ」
ライは、手にしていた紙を優雅に押し付けた。もともとは優雅が持ってきたものだ。だから彼女に返すのは何も不自然なことではないのだが、優雅にはそれがどういうことか瞬時に理解できた。
「…ライ！？ 何で…！」
「ライ！」
走り出そうとしたライの腕を、優雅の横からソウが掴む。
グイと引っ張られてよろけそうになりながら、ライは眉を寄せて実の兄を振り返った。
「何だよ、離せよ…！」
「ライが木本さんのところに行く理由はないだろ！？」
「何でそんなこと兄貴が決めなきゃなんねぇんだよ」
珍しく声を荒げるソウに、反対に冷静に応じるライ。この兄弟の性格から言えば、状況はいつもと逆に違いなかった。
優雅はハラハラと２人を見守ることしかできない。そもそもライが自分とソウを置いてまであの女性のところにいく意味が分からなかったし、それをこんなに全力で止めようとするソウのことも理解しきれなかった。
「彼女は…やめておいた方がいい。どうせ本気なんかじゃない。そういう付き合い方しかしない人だから」
「……」
ソウの言葉を受けて、ライは一瞬沈黙した。それから目を伏せたかと思うと、次の瞬間にはキッと吊り上げてソウを見下ろす。
「…いい加減にしてくれ」
声音は静かなのに、身震いするほど低かった。ゾワ、と背中を何か冷たいものがかけるのを感じて、優雅は「…ライ」と小さく呼びかけてしまう。
だがそんな蚊の鳴くような声は目の前の兄弟に届くはずもない。優雅の声を無視して、ライはソウの手を振り払った。
「いい加減そういうのうざいんだよ！ 俺の付き合いにまで口出しするな！」
「ライ！」
思わず制止するように優雅はその名を呼んだけれど、ライが留まることはない。
「大体…同僚の悪口言うような嫌な奴だったっけ、兄貴」
「…っ」
「ライ！ ソウちゃんはライを心配して…っ」
「知るか！ お前も俺のことに口出しするな！」
叩きつけるような言葉に、優雅はソウに続いて絶句する。返すべき言葉もなくただ立ち尽くすと、今のライはあの昼休みのあの時と同じに見えた。
目の前のライを見ていると、またあの時と同じ不安が自分の中を蝕んでいく。
お詫びのドーナツを奢ってもらってホッとしたはずだったのに、結局はまた同じことの繰り返しだ。
ライの苛立ちの意味も、ソウの焦燥の理由も、そして自分の中の漠然とした不安も優雅には説明できない。
ただ伸ばしかけた手をすり抜けて、ライが走り去るのを残されたソウと見送っただけだった。