ryoko
「前田さん」
厳かに名前を呼ぶと、目の前の女の子は萎縮したように首を竦めた。
小さくなって顔を俯け、決して私を見上げようとはしない。
その様子に吐息を漏らしながら、私は手にしていたファイルを彼女の前に突き出した。
「在庫チェック、ちゃんとしておいてって頼んだわよね？」
「…すみません」
「それと、さっきお客様から電話があったわ。あなたに頼んだはずの商品、取り置きしてなかったって」
「…あ…！」
「お客様にはこちらからお詫びしてご理解いただいたから、気をつけなさい。
今までにも何度も注意してるけど、その場でメモを取っておけばすむことでしょう？」
「すみません…！」
「二度と同じこと言わせないで。それと、今からしばらくはバック（事務所）整理して。
そんな顔で売り場に出られたら迷惑だから」
「……」
「ほら、泣いてるヒマがあったら仕事しなさい！」
一喝すると、前田さんは言葉なく頭を下げると急いで踵を返して行った。
その後ろ姿を見ていると、またため息が漏れる。
悪い子ではない…。だけど、仕事ができるかと聞かれると決して「はい」とは言えない。
何度も同じことを注意させられるし、仕事中にメモすらとらない。
そもそもの仕事に対する姿勢がなっていないのだ。
普通は、部下の不出来さは上司のせいだと思う。
だけど何度注意しても理解していないのかしようとしていないのか…ここまで言うことを聞かないと、逆に嫌がらせされている気分にすらなる。
某アパレル会社の、私が店長を勤めているこの店の中で彼女は一番仕事に向いていなかった。
だから、キツイ言い方になってしまうこともある。
だけど決して、別に彼女のことが嫌いなわけではない。
私は彼女とは違って、自分の仕事に一切の妥協を許せないだけだ。
大学を出てすぐに就職し、たった２年弱で店長を任されるという異例の昇進をさせてもらってきたから、余計だった。
「店長、１８時になりますけど…」
「…あぁ、うん。あがるわ」
前田さんを思うと頭を抱えたい心境になっていた私は、そこで熊野という後輩に声をかけられた。
今日は私は１８時あがりの予定になっている。
いつも夜遅くまで仕事していく私だから、彼女が気を使って声をかけてくれたようだ。
「後お願いね」
熊野さんにそう声をかけて、私は手早く着替えると店の外へと出た。
８月上旬、うだるような暑さはこの時間でも変わらなかった。
少し歩けばすぐに汗をかきそうな気温の中、それでも日は長く１８時を過ぎたとは思えない明るさ。
毎日真っ暗になってから帰る私だから、こんな明るい時間に外にいることが自分でも不思議だった。
今日は、特例だった。
朝は早くから夜は遅くまで、しかも休みもろくに取らずに仕事をしている私がこんな時間に帰ることはまずない。
だけど、今日は一年に一度の自分の誕生日だ。
最近ずっと会えていない彼氏と、久しぶりに会えるはずの日だった。
「……メール…？」
歩いて駅まで向かう途中、ふと鞄の中で携帯電話が振動したのが分かった。
長さが異様に短かったから恐らく通話着信ではなさそうだ。
首を傾げながらそれを取り出すと、まさにその彼氏からのメールを受信していた。
「………」
開いたその携帯電話に浮かび上がった文面は、今日の待ち合わせに行けなくなったという知らせだった。
全く会えないわけではなく、何時になるか分からないということみたいだったけれど…。
「……」
パタン、と携帯を閉じて、私は返信もしないまま踵を返す。
不思議とショックはなかった。ただ、「またか」という思いがよぎるだけ。
そもそもこのメール自体も驚くほど久しぶりで、本当に約束をしていたかどうかも怪しいくらいだ。
最後に会ったのなんて確か数ヶ月前。そんな状況で「私の誕生日くらいは」なんて期待する年でもない。
「…仕事に戻ろ」
今日どうしてもやらなきゃいけない仕事は、もちろん終えている。
でもやるべきことはいくらでもあるし、こういう空いた時間を他のことで有意義に過ごせるほど多趣味でもなかった。
そう思って店の方に引き返しながら、私は携帯電話を鞄の中に放り入れた。
******
店は繁華街の一画に建てられたかわいらしい外観で、女子大生、OLなんていう年代に人気だった。
営業時間は２０時までで、まだ照明は煌々と照らされている。
そんな店の裏側へ回り、私は事務室へそのまま入ろうとした。
「つうかホントに、何とかしてくださいよ熊野さんー」
事務室の扉を数センチ開いたところで聞こえてきた前田さんの声に、私はふと手を止めた。
さっきまで泣きそうだった彼女とはうって変わった…どこか不機嫌そうな声。
「もうホント勘弁なんですけどー。仲村店長って、私のこと目ぇつけてません？」
話の内容が自分のことだと気づいて、私はその場でわずかに目を見開く。
「私ばっかり怒鳴り散らして、こっちはいい迷惑ですよ」
自分の不出来さには気づいていないのか棚上げしているのか…彼女はしらっとそんなことを呟いた。
「まぁまぁ…店長、仕事人間だからねー」
苦笑い気味に、熊野さんが答えている。
「それですよ！自分が仕事大好きなんだかしらないけど、こっちにまで同じように求めんなって感じなんですよねー」
椅子に座っているらしく、前田さんがそう口を開くたびにギシギシと事務椅子の軋む音がする。
背もたれにもたれかかって体を前後に大きく揺らしているんだろうと思う。
「大体、今日は早く帰って珍しいけど…いつも夜遅くまで仕事じゃないですか？
なんか女捨ててるっていうか…あんなんじゃ彼氏もできませんよねー」
私には考えらんない、と付け足して、前田さんは辟易するように言った。
「あれ、知らなかった？店長って超イケメンの彼氏いるよ」
そんな前田さんに、熊野さんがそう答える。
「え！？マジですか！？」
「うん、一回ここに来たことあるから……あ、でも…」
一度言葉を切った熊野さんが、何かを思い出したらしく小さく声を上げた。
「そういえば、私見ちゃったんだよねー…店長の彼氏が、この前イタリアンレストランで他の女と楽しそうに食事してるとこ」
「えー！？浮気じゃないですか！」
「多分ね。店長あれだけ忙しい人だから彼氏とろくに会えてないって言ってたし、
あのイケメン彼氏だったら寄ってくる女も多いだろうから会えない彼女よりそっちに行くだろうし」
「つうかそもそも、付き合ってると思ってるの店長だけだったりしてぇ」
「あはは、それはさすがにないだろうけど…でも金ヅルぐらいには思われてたりしてね」
「金ヅル？」
「だって店長、あんだけ働いてお金持ってるでしょ？浮気相手の女の子は店長より明らかに若い子だったから、
店長とは都合いいから付き合ってるだけなのかも」
「あははは！！それありえますねぇー！！」
前田さんの高笑いと、控えめだけれど堪えきれないような熊野さんの笑い声が頭の中で響いて離れない。
立ち尽くしていた私は、意識する間もなく事務所のドアから手を離してしまった。
音もなくパタンと閉まったそれが、何の遠慮もなくその空間を遮断する。
頭は真っ白になったようで、なかなか働いてはくれなかった。
ただ……
……限界だ、と思った。
彼女たちの言うように、私の彼氏が「都合いいから」私と付き合っているわけではないことは分かっている。
でも、浮気は否定できない。
前から、これだけ会っていないのだから陰で何しているか分からないとは思っていたから。
そして今の自分を支えている唯一の仕事においても、部下にこんな風に言われてしまう始末。
昔は…こうじゃなかったのに。でも、本当はもうとっくに私も彼氏も限界だったのかもしれない。
ただ私は、仕事が忙しいフリをしてそのことを見てみぬふりしてきただけだったんだ。
******
結局事務所に入れるわけもなく、私は仕方なくまた駅への道に戻った。
たださっきより足取りは重く、陰鬱な気分を物語っている。
こんなひどい顔を職場の人間に見られなくて良かった…。
そう思った、その時だった。
「諒子さん…？」
ようやく夏の夜も暗くなり始めた頃、人ごみの中で誰かが私を呼ぶ声がした。
振り向いた私は、そこにいた人影を見て目を瞠る。
それからその懐かしい姿に、思わず顔がパァッと明るくなるのを感じた。
「貴弘！貴弘でしょ！？」
そこにいたのは、大学時代のサークルの後輩、名取貴弘だった。
理学部に通う大学時代、私はジャズサークルに所属していた。
貴弘はその時の２つ後輩で、卒業してからは一度も会っていなかった。
「ユキは？今でもつるんでる？元気？」
せっかくだからと入ったカフェで、２人して同じカフェオレを頼んだ。
それを飲みながら聞くと、貴弘は「あぁ」と笑う。
「基本的には元気ですよ」
その答えに、私は思わずぷっと吹き出した。
「何、『基本的には』って」
「今ちょっと元カノにストーカーされてて病み気味です」
「えっ、大変じゃない」
元カノって確か…すーんごくかわいい小動物系の女の子だっけ。…ただし、すごい束縛系の…。
色々あるんだなぁと思ったけれど、あまりこの話題は突っ込まない方がいい気がしたので話題を変えた。
「理沙ちゃんは？この前おめでただって聞いたんだけど」
「あぁ、そうなんですよ。１１月予定日です」
「そうなんだ！おめでとうー。貴弘もお父さんになるんだねー」
理沙ちゃんというのは貴弘の更に１つ下で、彼女も当時ジャズ研にいた。
貴弘と結婚して何年かたつけれど、最近待望の子どもができたんだという話は聞いていた。
「ありがとうございます」と笑う貴弘は、やっぱり数年ぶりに見ると更に大人っぽくなったようだった。
県内で高校教師をしているはずだから、学生の時とは雰囲気がまるで違って見える。
こうやって、皆変わっていくのに…。
私だけ、数年前のまま止まってしまっているみたいだった。
「諒子さんは？最近どうですか」
尋ねた貴弘の言葉は、別に恋愛に関して聞きたかったわけじゃないのかもしれない。
それでもさっきまで考えていたことがまさにそれだったので、私は少し顔を俯けた。
「……私は…多分、もうダメ」
呟いた言葉に、貴弘がわずかに片眉を持ち上げたのが分かった。
ずっと、気づかないフリをしてきたことがある。
誰にも言わなかっただけ、自分でも気づかないフリをしていただけで、私はきっとずっと彼氏に不満があった。
好きだという、そんな付き合い始めた時の気持ちが跡形もなくなくなったとは思わない。
でも、付き合いもこう長くなるとそれだけじゃなくなるのだ。
「就職した頃は、私…自分のことで精一杯だった」
プライベートも何もないくらい、仕事ばかりだった。
先輩たちに追いついていくのに必死で、朝から晩まで働き通しだった。
１才年下で、その時まだ大学生だった彼氏とは、思えばその頃から溝ができていたのかもしれない。
今になって…そう思う。
「あいつのことなんて見向きもしないくらいがむしゃらに働いて…。
だから、やがてあいつが卒業した時にもそれは変わらなかったのかもしれない」
私の彼氏は、大学の法学部に通っていた。
法律関係の仕事をしたくて、司法試験を受けるために法科大学院に通いたいとも言っていた。
だけど彼の実家はそれほど裕福なわけではなく、彼自身も特待生として授業料を免除してもらえるほど成績が特別優秀だったわけでもない。
大学院にすぐに行けるわけではなかったので、卒業してしばらくは働いてお金を貯めるのだと言っていた。
応援したい気持ちはもちろんあったけれど、彼が仕事に選んだのは夜の仕事だった。
…もちろん、夜の仕事をする人を否定するわけじゃない。
給料の割がいいことも分かるし、働きながら学費を稼ぐならそれが一番だっただろう。
でも…私は、それが寂しかった。
もうその頃に私は２４，５になっていて、働きながらも漠然と将来のことを考えるようになっていたから。
女なら…結婚なんてことを考え始めてもおかしくない年だ。
何も今すぐに、というわけじゃない。
今から視野に入れて数年後に…そんなことを全く考えていないわけではなかったから。
だけど彼氏が夜の仕事を始めてから、元々仕事が忙しかった私と時間が合うことはほとんどなかった。
はじめの頃は頑張って時間を取るようにもしていたけれど、段々とその努力も減っていった。
お互いがお互いの仕事を優先した結果だ。
それでもそれを不満に思っている自覚はあまりなかった。
ただ、遠距離恋愛をしているような感覚で「仕方がないこと」として自分の中で処理していたんだと思う。
でも…狂い始めたのはいつからだろう。
段々とあいつは、大学院に通う夢を諦め始めたように見えた。
現実を見据え始めたのかもしれない。…でも、いつかはやめるのだろうと思っていた夜の仕事をやめることはなかった。
今では大学院や司法試験の話はしなくなり、ただ毎日を夢を追うこともなく普通に暮らしているだけ。
「…私は、夜の仕事がダメだと思ってるわけじゃない。だけど…」
蚊の鳴くような声の私の呟きを、貴弘は黙って聞いてくれていた。
「私は…無理なの。結婚を視野に入れた時…やっぱりそういう仕事をしている人とは無理だと思う」
特段の理由がない限り…しっかり定職について、昼間に働いてほしい。
そう思うのは私が古い人間なのだろうか。
しかも夢のためならともかく、特別の理由なくただ水商売のような仕事をしているだけだったら尚更だ。
「…諒子さん、それは…」
何かを言いかけた貴弘の言葉を、私は片手で制した。
…昔から、この子は人の話を聞くのがうまい。
悩みなんかを打ち明ければ、いつだって欲しい言葉を言って慰めてくれていた。
「ごめん、貴弘。今…貴弘に何か言われたら、私慰められて立ち直っちゃうかもしれない」
出てきそうな涙を必死でこらえながら、私は揺れる視界をテーブルの上に落とした。
「聞いてもらっておいてごめん…。でも今は…落ち込みたい気分なんだ」
それは、自分への戒めだったから。
今まで自分と彼氏の間の問題を見ないフリをしてきた自分への…罰のようなものだ。
******
散々落ち込んだ私の話を、貴弘は結局黙って最後まで聞いてくれた。
それから最後に店を出て別れる時には、ようやく私も笑って挨拶はできた。
貴弘は言葉通り慰めるわけでもなく、ただ笑って「また」と言って夜の闇に消えて行った。
その後ろ姿を見えなくなるまで見送った後、ようやく私は駅から電車に乗った。
いつもの帰り道のはずが…随分遠く感じる。
重い気分はまだ晴れることなく、自分の上にのしかかるようだった。
３階建てのマンションに着いた頃…時刻は２１時になろうとしているところだった。
いつもならまだ事務仕事を片付けている時間。
こんな時間に家に着くのが珍しいから…私は、自分が夢か幻でも見ているんじゃないかという気になった。
そのマンションの下に…一つの影を見つけたのだ。
目を疑っていた私に気づいたその「影」は、こちらを振り向いて「おかえり」とニッコリ笑った。
……この…笑顔がずっと好きだったはずなのに。
…ううん、好きだという気持ちは変わらないはずなのに。
それでも今となっては、胸が痛い。
「…何で…ここに？」
私の小さな問いに、数ヶ月ぶりに会うあいつは少し笑った。
「ちょっと用事があったんだけど、結局早めに終わったから」
「……」
「誕生日おめでとう」
浮気してるなら…きっと今日はもう来ないと思っていた。会えないだろうと思っていた。
そんなことを私が考えているとは知らずに、あいつは笑ったままポンと私の手にケーキの箱を差し出す。
私が昔から好きなちょっと高めのケーキ屋の箱。
都内まで行かないと買えないから、わざわざ買いに行ってくれたんだろうと思う。
でも、私は…もう……。
「……修司」
そのケーキの箱を手に乗せたまま、私は小さく呼びかける。
「…ん？」と聞き返したその顔を、直視はできなかった。
「話があるの」
「うん。俺も今日、諒子に話したいことが…」
「別れて欲しいの」
何かを言いかけた修司の言葉すら遮って、私はそう早口に言葉を継いだ。
「………」
笑顔でも怒った顔でもない修司の無表情を…この時見たのは、きっと数年ぶりだった。