ryoko 5
覚悟はできていると言った修司は、私が切り出した別れを受け入れているようにも思えた。
引き止める気もないのか、修司からは抗う言葉すら聞けない。
それが何だかやけに切なく感じるのは、私の身勝手に他ならないだろう。
「私…修司があのバーで働いてるのを、ずっと快く思ってなかった」
そう切り出した私は、今まで気づかないフリをしてきたことを口にすることで自身に言い聞かせているようだった。
「大学院に行く学費を稼ぐためだって言ってたから、初めは仕方ないと思ってた。
でも段々修司からそんな夢を見てた頃の様子が感じられなくなって、がっかりし始めてた」
「………」
黙って私の話を聞く修司は、途中で口を挟もうとはしない。
ただ感情の読めない無表情で、真剣に私の言葉に耳を傾けるだけ。
「初めは…それでも仕方ないと思ってたんだと思う。
だけど、この年になるとそうも言ってられなくなってきたの」
もう私は、２８歳になった。
将来のことを全く考えない年でもない。
「今の仕事は大好きだし、今私は仕事人間みたいに思われてるけど、
本当は、いつまでも仕事を続けたいと思ってるわけじゃない。
結婚したらあっさり辞めて家庭に入って、子ども産んで楽しく育児してみたいなとも思う」
仕事にしがみつくつもりは、毛頭なかった。
ただ結婚をきっかけに、今までがむしゃらに働いてきた分、今度は家庭に専念してもいいと思う。
私はあまり器用じゃないから、今目の前にあることを全力で努力しないとダメなタイプだ。
だから社会人になった途端に、仕事しかできない人間になっていた。
結婚して家族を持ったら、自分の性格では仕事は続けられないに違いない。
「２８にもなると、さすがに先のことを考えちゃって…。
だけどそうした時…、正直今のままだと不安なの」
「……うん」
そこで初めて、修司が小さく返事をする。
私のその不安な気持ちは受け止めてくれるのか、目を逸らし気味の私に頷き返した。
「男の人は…そうじゃないって分かってるつもり。男なんて３０代になってもまだまだこれからって感じだし…。
修司がまだ結婚とか全然考えてないって分かってる。
でも、私は無理なの…。夜の仕事で、将来の見えない人とこのままずるずる付き合っていくのは無理なの」
「………うん」
また、修司が頷く。
それが分かったから、私の目から堪えていたはずの涙が一滴零れ落ちた。
「だから…別れようと思った。もう無理だと思ったから。
だけど……」
「『だけど』？」
一瞬言葉を切った私に、修司が優しい声で繰り返す。
妙な緊張感からか、この時私はろくに息ができていなかった。
「あの時修司の後ろ姿を見送った時…私はもうすぐに自分の言葉を後悔してた。
それから、昨日バーで修司がどうしてあそこでの仕事を選んだかマスターに聞いた。
ユキには、私が修司の話を聞かずに今まできたんだろうって言われた。
浮気を疑ったりもしたけど…それも誤解だって、さっき和美ちゃんに教えてもらった」
「……」
私は、ただ不安だったんだ。ただ寂しくて仕方がなかっただけなんだ。
「将来が不安になるのは気持ちがなくなったわけでもなくて…逆に、それくらい好きだったから」
流れる涙は拭いもせず、私は続ける。
「不安から別れを選ぼうとしたのは…このままずるずる付き合って、将来、結局修司が私から離れる時が来るのが怖かったから」
今のうちに傷ついてしまえば、年を取ってから何かを失うよりダメージは少なくて済むと思った。
だけど…そんなのは、間違いだったんだ。
だって結局、職業に不安があろうが何を考えているのか分からなかろうが…それでも、自分の気持ちの在り処は一つなんだから。
「…ごめん…」
小さく謝りながら、私は手を伸ばす。
指先は修司の服の袖を掴み、縋るのにも似た思いで続けた。
「別れたいって言ったこと…取り消したい」
それでも無理だと修司が思うなら、私にはもうどうしようもない。
だから…今の私には、そう言うのが精一杯の勇気だった。
「………」
少し何かを思案するような表情を見せた修司は、やがて「ふーっ」と長いため息をついた。
そしてそれから、真顔のままポケットから名刺入れを取り出す。
その中の一枚を出して、私の前に差し出した。
「………何？」
促されるままに受け取って、私は首を捻る。
そこには、都内の法律事務所の所長さんの名前があった。
「大学時代にお世話になった教授の、知り合いの弁護士。
その人のところでようやく空きが出て…今日からそこで働くことになってる」
「………え！！？」
続いた修司の言葉に、私は思わず自分の耳を疑った。
上げた目線で、修司と名刺を交互に見比べる。
「俺は…まぁ、弁護士になれれば一番良かったけど、いつか法律関係の仕事ができればそれで良かった。
だからずっと働きながら勉強は続けてたよ。結局大学院に入って司法試験を目指すより、
パラリーガルとして法律事務所で働ければ俺にとってはそれが一番現実的だと思った」
「『パラ』…？」
「弁護士の補佐的な職業、ってこと」
専門的には詳しくないので、修司が簡単にそう説明してくれた。
「法律関係の仕事をしたいと思っても…なかなか雇ってくれるところもなかったんだ。
何の実績もないし、俺は特別成績が優秀だったわけでもないから」
「……」
「だけどようやく、その弁護士の先生が事務所に呼んでくれた。
この前急な話で呼ばれて…待ち合わせに行けなかったのも、そのせい」
修司はあの時…この話をしようとしていたんだ。
今ようやくそれが分かって、私はその名刺を持つ手に少し力をこめた。
「バーのマスターにはすぐに事情を説明して、その日づけで辞めさせてもらった。
マスターは前から俺が将来どうしようと思ってるか知ってたから…快く送り出してもらえたよ」
「……そう…だったんだ…」
小さく呟いて、私はその名刺を修司の手に返した。
それを受け取ってから、修司はそれを持っていた名刺入れに戻す。
「俺はさ、諒子」
改めて呼びかけられて、私はようやく顔を上げた。
長めの前髪をかきあげながら、修司は少し困ったように苦笑いを浮かべる。
「あんまり、自分の話をするのは得意じゃないんだ。…知ってると思うけど」
「…うん」
「そのせいで不安にさせてたなら…ごめん。話したくなかったわけじゃない」
……そう、分かっているつもりだったはずだ。
修司は自分の話をする時間があるなら、私の話を一つでも多く聞いてくれようとするような人だってこと。
でもいつの間にかそれが不満に変わっていて……こうして、きちんと話をすればお互いに分かり合えるはずだったのに。
「特に諒子には…仕事の話は決まってから、と思ってたから」
だってかっこ悪いだろ、と続けて、修司はまた少し笑う。
「だからそのことで…諒子が『私が話を聞かなかったからだ』って自分を責めるのは、違うよ」
「………」
涙の浮かぶ私の目元を長い指で拭って、修司はそう言った。
だけどそのすぐ後、少しだけどこか複雑そうな表情を浮かべる。
「ただ…一つだけ、諒子は俺のこと誤解してる」
「……え？」
「…………考えてないわけじゃなかったんだ」
小さな修司の呟きは、どこか言いにくそうにしているせいで囁き程度のものだった。
油断すれば聞き流してしまいそうなそれに、私は首を捻って尋ね返す。
修司はそんな私の怪訝な顔を至近距離で見つめ返すと、あの苦笑いをもう一度浮かべた。
そしてそれから、手近にあった鞄に手を伸ばす。
その中から小さな何かを取り出し、私の手のひらにポンと乗せた。
「……何…これ」
聞き返さなくても、頭で考えれば分かったはずだ。
ただ、その小さな箱を見た瞬間、頭が真っ白になって理解したくてもすぐにはできなかった。
「近いうちに渡そうと思って…ずっと持ってた。
この前仕事が決まったのが諒子の誕生日だったから…ちょうどその日がいいと思って、あの時渡すつもりだったんだ」
そんな修司の言葉を聞きながら、私は震える手でその箱を開ける。
リボンをほどいたその箱の中から出てきたのは、手触りのいい、それでもどこか重厚な雰囲気の「ケース」。
「…これ…」
開いたそこにあったのは、キレイな石のついた指輪。
部屋の照明に当たって、きらきらと輝いていた。
「正直、意気揚々と渡しに言った日に別れてほしいって言われるとは思ってなかったけど」
修司はそう言って「はは」と笑ってから、ふっと表情を緩める。
優しい顔で私を見つめ直してから、その開けたケースから指輪を取った。
反対の手で私の左手を取り、その薬指にはめる。
「修……」
「俺と、結婚してください」
「！……」
驚きの余り、止まりかけていた涙がまたぶわっと溢れてきた。
熱い雫はすぐに目の淵に溜まり、今度は堪えることもできずにすぐに零れ落ちる。
「…はい…っ」
それだけ、答えるのが精一杯。
私は指輪をした指を離さないように固く握りこみながら、目の前の修司の首に勢いよく抱きついた。
******
「うん？…うん、そう。修司と話し合って、式と披露宴は親族だけでひっそりやろうって話になって。
友達にはまた別に集まってもらって、レストラン貸切にしてウェディングパーティーみたいにしようかなって」
あれから数日後、それまでが長すぎたせいか今は勢いよくトントン拍子に話を進めていた。
今日も仕事の休憩中に、ファイル整理をしながら携帯電話でそんな話をしていた。
「で、そのレストランを何箇所か下見に行きたいんだけど…和美ちゃん、一緒に行ってもらえない？」
夏休み中だという和美ちゃんに電話をかけて、私はそう続ける。
彼女とは、あの後無事に修司とうまくいった話を報告して以来電話をしたりメールをする仲になっていた。
まだたった数日の付き合いだけど、高校生にしては落ち着いているせいか私も話しやすい。
「ん？大丈夫大丈夫。修司は仕事変わったばっかりで忙しくて行けないって…。
式の準備の方で精一杯みたいで、パーティーの方は私に任せるんだって」
一度言葉を切って、私はニヤリと笑うと「それに」と付け足した。
「和美ちゃんも、将来に備えてこういうの見ておくのも悪くないでしょー？」
言うと、予想通り焦ったのか電話の向こうからかわいらしい悲鳴が聞こえてくる。
まぁまだ高校生だから結婚なんて現実的には考えていないだろうけれど、夢くらいは見ていいに決まってる。
「理沙ちゃんも誘うつもり。彼女、年下だけど結婚に関しては先輩だから」
続けた私に、和美ちゃんは恐縮しながらも喜んで引き受けてくれた。
その時ちょうど、店舗と事務所をつなぐドアが開いて「店長ー、ちょっとお願いしますー！」という声が聞こえてくる。
「はーい。…あ、和美ちゃん、ごめん、また連絡するね。ありがとう」
お礼を言って、私は携帯電話をしまうと声のした方へ向かう。
アルバイトの女の子が山のような在庫を両腕に抱えて、縋るような目でこちらを見ていた。
「本部からの指示があったこれの処理、どうすればいいのか分からなくて…」
「あぁじゃあ、とりあえず奥に運びましょ」
彼女の腕からその半分を引き受けると、私はそのまま事務所の方へ引き返す。
そんな様子を少し離れたところで見ていた前田さんが、熊野さんに「…店長、最近なんかちょっと変わりましたよね」と囁いているのが聞こえた。
変わった…のだろうか、私は。
これからの自分には仕事だけじゃないと思えば、不思議と肩の力が抜けたのかもしれなかった。
「辞めてもいい」と思っていたはずの仕事は、「いつでも辞められる」と思えばリラックスできたのか
今までより順調に運んでいる気がする。
「店長！こっちもお願いします！！」
別の場所から飛んでくるヘルプの声に、私は顔を上げる。
「はーい」
と大きく返事をして、持っていた在庫の処理を詳しく指示すると忙しくすぐにそちらへ向かった。
今の自分なら、プライベートでも仕事でもうまくやっていける気がする。
だってここから、私の新しい未来を描いていくのだから。