Syuji 1
「あ、いたいた。揃ってる揃ってる」
その日の大学の講義を終えて学内にあるカフェでコーヒーを飲んでいると、そんな声が後ろから降ってきた。
声の主はサークルの先輩で、３年の玲奈さんだった。面倒見のいい人で俺たち１年の世話役を任されている。
姉御肌でいつも明るく、ベリーショートの似合うサバサバとした人だった。
その声に、一緒にいた友人と同時に振り返る。それを満足そうに見つめる玲奈さんは、「どれにする？」と隣にいた女の人に声をかけていた。
意味が分からない俺は、隣に座っていた貴弘と顔を見合わせて首を捻った。目の前でユキだけは、全く興味がない顔をしてコーヒーを呷っている。
「玲奈、やっぱりそういうのはやめとくわ私」
「何言ってんの！ もうこれしか方法ないんだから腹くくりな！」
何かを抗議しているその女性に、玲奈さんはいつも通り男前な口調で叱咤する。そんな玲奈さんにはそれ以上何を言っても無理そうだと思ったのか、彼女は深々と溜息をついてから俺たちの方を向いた。
…話したことはないけれど、顔を見たことはある人だった。ウェーブのかかった長い髪を緩くアップにしていて、スラリとしたスタイルの美人。
見た目からして男っぽい玲奈さんと正反対だったけれど、彼女も大人しい女性というよりは気が強そうな目をしていた。
確か、玲奈さんと一緒にいるところを何回か見かけたことがある。話はしたことがないけれど恐らく彼女もうちのジャズ研の先輩だろう。
「私のおススメはユキかな。扱いにくいけど、こういう時は一番役に立つと思うよ」
どこか楽しそうに言う玲奈さんの言葉の意味は、尚更分からない。
だけど彼女には、俺たちに事情を説明するという親切心はないらしい。こちらのことを完全に無視して、玲奈さんは自分の友人に「さぁ選べ」としつこく迫っている。
「…じゃあ…彼で」
そう言ってその女の人が指し示したのは、多分この中で一番この状況に不思議そうな顔をしていた俺だった。
「あんたが小塚を選ぶとは思わなかったわー」
さっきまでユキが座っていた俺の目の前の椅子を引きながら、玲奈さんはその女性にしみじみとそう言った。
そう言われている彼女の方は、玲奈さんの隣に座る。そして俺は、２人に正面から見据えられるという不思議な構図に追い込まれた。
ちなみにユキと貴弘は、あの後すぐさま「はい、悪いけど今から小塚貸してー」なんて玲奈さんに言われて追い払われている。
「小塚、この子知ってる？ 私の親友で一応ジャズ研の部員なんだけど…まぁあんまりサークルに顔出さないんだけどね」
「…はぁ…何度か見かけたことくらいは」
玲奈さんの言葉に応じる俺の前で、その例の彼女は軽く頭を下げた。
「仲村諒子です」
「…あ、小塚修司です」
先輩に先に名乗らせてしまったことに気づいて、俺も慌てて自分の名前を口にする。そんな様子を見やっていた諒子さんは、少しだけ「ふふ」と微笑んだ。
大人っぽい容姿に、少しだけ幼さの感じる笑顔だった。
「で、小塚、実はあんたに頼みがあるんだけど」
「何ですか？」
諒子さんではなく、玲奈さんの方がそう話を切り出す。前置きなんてほとんどなしに本題に入ろうとしてくれる辺りが、俺も玲奈さんの好きなところだ。
諒子さんはどうも今回のその「頼み」とやらに乗り気ではないらしく、今でも複雑そうな表情で玲奈さんと俺を交互に見やっている。
…これは…何だか相当大変なことでも頼まれるんだろうか。
「1ヶ月でいいから、諒子の彼氏のフリしてくれないかな」
「…は？」
思わず半拍遅れで、俺は間抜けな声を出していた。その真意を探ろうと玲奈さんの目を見つめ返すけれど、冗談を言っているわけではないらしい。
そんな俺の様子に、諒子さんが少し慌てた様子で玲奈さんの腕を掴む。
「ほら、やっぱりやめよう。そこまでしなくても…」
「諒子は黙っててよ」
「でも…！」
「このままじゃもっと面倒くさいことになるよ！ それでもいいの！？」
「でも、小塚くんにも迷惑だし…」
「いいですよ、俺は別に」
エンドレスで続きそうな目の前の口論を遮る形で口を挟むと、玲奈さんと諒子さんは同時にバッと俺の方を振り返った。
「マジで！？ さすが小塚！ 事情も聞かないうちに快く引き受けてくれるなんて…！」
「いや、だって、それなりの理由があるんでしょう？ 俺でいいんならこっちは全然…」
「良かったね諒子！ いやホントはさ、貴弘だったらどういう事情があるのかきっちり説明して、論破できなかったら引き受けてくれなそうだし、ユキなんて絶対『めんどくせぇ』の一言で一蹴するだろうなと思ってたんだよね！」
「あぁ…それは確かに想像つきますね」
玲奈さんの言う光景が、本当に目に浮かぶようだ。苦笑を洩らして同意した俺に、玲奈さんは「ホントにありがと！」と何度もお礼を言っていた。
******
どうやら後で説明を受けた事情は、こうだ。
諒子さんには一年くらい付き合っていた人がいて、半年くらい前にひどい別れ方をしたらしい。
原因までは聞いていないけれど、玲奈さんの怒りようから言えばどうやら悪いのは男の方だったようだ。
一方的に裏切られて、別れて…やっと諒子さんが落ち着いてきた今になって、ヨリを戻そうとしつこくされているとか。
放っておけばストーカーにすらなりそうなその男との状況を懸念して、玲奈さんが今回の作戦を思いついたらしい。
「小塚が彼氏のフリして、諒子と一緒にその男に会ってほしいの。そんでその後１ヶ月くらい、嘘を本当っぽく見せるために付き合ってるフリしてくれないかな」
そう頼んできた玲奈さんの顔は真剣で、本当に親友の心配をしているのが分かる。
「俺は構いませんけど…でもそれって、逆上したその元彼が更にエスカレートする心配はないんですか？」
十分考えられそうなことだと思う。そう思って口にしたけれど、玲奈さんは「それは大丈夫」と強気に言った。
「その男ね、すっごいプライド高いの。新しい彼氏ができたって知ったら、そこまでして諒子に縋りつくこともなくなると思う」
「…なるほど」
要はあれか。別れたけれど元彼女はいつまでも自分のことを好きなはずだと勘違いするタイプか。
…確かに面倒くさそうな男だな。早めに手を打った方がいいのは玲奈さんに同感だった。
そう思って、俺は椅子から立ち上がる。
「元彼、大学内の人ですか？ 今すぐ会いに行きましょう」
「えっ！？ 今から！？」
驚いて顔を上げた諒子さんが、目を丸くしている。
「時間を置く理由もないですし…早い方がいいと思います」
そう告げて諒子さんの前に手を差し出すと、彼女は少し困惑した表情を浮かべた。だけどすぐに意を決したようにキリッと目線を上げて、俺の手を取った。
******
諒子さんの元彼は大学の４年生で、サークルは別だけど彼女と同じ学科の先輩だった。
どちらかと言うと強面でガタイもよく、俺とは正反対のタイプ。沸点が低そうにも見えたので、数回殴られるくらいの覚悟はしておいた方がいいかもしれないと漠然と思った。
だけど殴られることもなく、彼は結局俺のことは正視しないままだった。恐らく、認めたくないんだろう。玲奈さんの言うようにプライドが人一倍高いんだろうと思う。
「だから…今私、彼と付き合ってるから…もう連絡してこないで」
最後にそう締めくくった諒子さんの手は、繋いだままだった俺の手をギュッと更に強く握りこんだ。
彼女は…まだどこかでこの元彼のことが好きなんだろうか。だけど戻るほど愚かにもなれないのかもしれない。
ヨリを戻せば、また同じことの繰り返しになるかもしれないと知っているから。
「あースッキリした。ありがとう修司くん」
帰り道、俺の手を離した腕を上げて「んー」と伸びをしながら言う諒子さんは、本当に解放感に溢れているようだった。
それでもその言葉がどこまで真実なのかは分からない。誰でも…どんな人とでも、一度付き合ったら別れる時には何かしらの寂寥感は感じるだろうからだ。
「いえ、お役に立ててよかったです」
実際俺は黙って立っていただけだけれど、まぁあの彼氏ならもう諒子さんにどうこう言ってくることはないだろう。
その点では効果があったかもしれない。そう返して俺はニコリと笑ってみせた。
「そう言えば諒子さん、今週末ヒマですか」
「え？ …うん、予定はないけど…」
「良かった。じゃあ週末、俺とデートしてもらえませんか」
「えぇっ！？」
微笑んだままサラッと言った俺に、諒子さんは飛び上がりそうなほど驚いて大きな声を上げた。明らかにうろたえた様子だったけれど、何かに思い当たったのかハッと我に返ったような顔をしてから一度咳払いをする。
「…あのね、修司くん。確かに玲奈は『1ヶ月彼氏のフリして』って頼んだけど…大学外でそこまでしてくれなくても大丈夫よ」
「そういうんじゃないですよ」
声を立てて笑って、俺はもう一度彼女に手を差し出す。
「ちょうど見たい映画があるんです。今日の件の代わりに、付き合ってもらえませんか」
俺のその言葉が、事実ではなく彼女を納得させるためと気を遣わせないためのものだと気づいているのか、諒子さんは小さく吐息を洩らしたけれど微かに苦笑を浮かべた。
そしてゆっくりと、「…まったく、怖い子ね」と呟きながら俺の手を取る。
「ありがとう」
お礼を言われて、俺は笑いながら小さく首を振った。
諒子さんとは週末になったらどこかへ出かけ、大学内ではたまに昼食を一緒にとったりするようになった。
周りの友達からは「修司、彼女できたの？」なんて聞かれたから恐らく俺と諒子さんの「演技」もそれなりのものだったのかもしれない。
でも俺は、全く無理をしているつもりはなかった。諒子さんと一緒にいたら自然でいられるし、「フリ」なんてしなくても楽しかった。
彼女の方がどう思っているのかは分からなかったけれど。
「修司くん」
一般教養の講義の帰り、貴弘と歩いていると少し離れたところから諒子さんの声がした。
振り返ると、すぐ近くの学部棟２階の窓から顔を出している。どうやら俺の姿を見つけてわざわざ声をかけてくれたようだ。
笑顔で手を振っている彼女に、俺も笑って手を挙げた。その様子を見ていた貴弘が首を竦めながら呆れたような顔をする。
「お前ら、それで本当に付き合ってねぇのかよ」
「うん」
あっさり答えた俺に、貴弘は納得いかないと言わんばかりに眉を寄せる。
「玲奈さんも面倒なこと頼むよな」
「そう？ 俺別に面倒とか思わないけど」
「…マジでお前のこと尊敬するわ。ユキじゃなくても面倒くせぇと思うぜこれは」
一般的にはそうなんだろうか。でも俺は、これくらいのことで誰かが何かから救われるなら安いものじゃないかと思う。
偽善だと言われたらそれまでだろうけど。
…いや、でも本当は、自分でも薄々気づいてはいたんだ。
確かに俺はこういうことを面倒だとか迷惑だと思うタイプじゃない。だけど、今回ばかりは少し違う。
多分もう、この時には俺は諒子さんに惹かれていたんだ。話していて楽しくて、気が強いけれどどこか脆いところもあって…そんなこの人のことを守りたいと、思っていたはずだ。
「そういえば修司くん、誕生日いつ？」
何度目かのデート中に、諒子さんがそう尋ねてきた。
「１１月３０日です」
「えぇっ？ じゃあもうすぐなのね」
その頃には１１月も半ばを過ぎていて、確かに自分の誕生日まであと少しだった。
「もうすぐ１９かー」
「…あれ、言ってませんでしたっけ。俺浪人してるんで、今年ハタチなんです」
「そうなの？ じゃあ私とも１つしか違わないんだ…」
繋いだ手を握り直しながら、諒子さんは「ふふ」と笑う。
「お祝いしなきゃね。何がいいか考えておいて」
まるで自分のことのように楽しそうに笑う諒子さんの言葉に、胸のどこかが軋む。
彼女は…分かっているんだろうか。もう俺が誕生日を迎える頃には、約束の1ヶ月を過ぎていることに。その時にはもう一緒にいられないのに。
「……」
答えないままの俺に、諒子さんが不思議そうに首を傾げる。
「どうかした？ 修司くん」
恋人のフリなんて無理をしているつもりはなくて、ただ本当に楽しくて忘れていた。
いつかは終わりがくるって分かっていたはずなのに。
「…いえ」
曖昧に濁して笑って、俺は頭を左右に振る。軋んだ胸の痛みを、小さな咳払いでごまかした。