day by day 1
クリスマスをほんの数日後に控えたある日、学校は終業式を終えて冬休みに入った。
眠い式と短いＨＲだけを終えて、正午よりも前には解散になる。化学部の友達に呼ばれて用事を済ませ、教室へ戻ってから下校しようとした時にはもう校内に生徒はほとんどいなくなっていた。
朝から降っている雨も、未だ止む気配はない。曇った黒い空を見上げながら、校舎と校舎を繋ぐ屋根の下を歩いていた時だった。
「……智子？」
みんなが下校した後、しかも雨だ。中庭には本来なら誰もいるはずがないのに、一つの影が端の方で屈んでいるのが見えた。
傘も近くに放り出し、制服も濡れて色が濃くなっている。それでも構うことなく、何かを必死に探しているのか膝も手も地面についている。
その姿は、斜め後ろからでも見間違えるはずがない。親友の智子のものだ。
もう帰ったと思っていたのにまだ残っているということだけで意外だった。思わず上履きのままで一歩踏み出してしまう。
「智子！」
声をかけると、ビクリと肩を震わせて智子がこちらを振り返った。その表情はいつもの凛とした彼女らしくない。今にも泣き出しそうな顔と、雨で白い肌に張り付いた髪。
私の顔を見るなり、それがまたクシャッと歪んだ。
「和美ぃ…」
「どうしたの！？」
慌てて尋ねた私に、智子は泣きそうなのをこらえながら立ち上がる。そして寒さと雨の冷たさで震える唇を再び開いた。
「…指輪、なくした…」
「えぇ！？」
智子の弱々しい言葉に、私は目を見開く。指輪…というと、智子がいつもネックレスにして下げていた、裕貴くんからもらったものだ。
「待ってて！ 靴を履き替えてきて私も探すから！」
言うなり身を翻すと、私は急いで昇降口へ向かった。
智子の話では、どうやら指輪がないことに気づいたのはＨＲを終えて帰ろうとした時らしい。
心当たりは探して、体育館までの道のりや教室内はもう見た後だそう。残るは今日、珍しく朝通ったこの中庭らしいのだけれど…ここに絶対にあるという確証があるわけでもないのが難しいところだ。
でも、智子がここだと思うなら手伝いたい。そう思って外靴に履き替えた私は、傘をさして智子と指輪を必死に探した。
智子が傘を放り出してびしょ濡れになっていたのにも納得だ。私も段々と片手で探すのが煩わしくなって、気づくと手放していた。
両手で芝と土を確認しながら、２人で地面に膝をつく。それだけ必死だった。だって、いつも冷静な智子がこんな顔をするなんて相当のことだから。
「…何やってんだ、お前ら」
驚いたような呆れたような…そんな声が降ってきたのはどれくらい探した後だったのか。
智子と頭上を見上げると、２階の窓から不思議そうにこちらを見下ろすなっちゃんと目が合った。
******
「…指輪ねぇ」
そのまま数学準備室に連行され、借りたタオルで髪や制服を拭くと、私と智子になっちゃんは呟きながら熱いコーヒーを淹れてくれた。
「気持ちは分かるけど、ちょっと落ち着けよ松浦」
「でも…っ」
涙まじりの声を詰まらせて、智子はスンと鼻をすする。
「明日…久々に裕貴に会う日で…そんな時に、なくしたなんて言えない…っ」
「お前ら確か付き合い長いんだろ？ そんなんで揉めるようなカップルか？」
私もそこはそう思う。裕貴くんはきっと、指輪をなくしたくらいで怒る人じゃない。
でも、そういうことじゃないんだ。女の子にとったら、彼氏からもらった指輪は特別で、それをなくしたっていうこと自体がひどく重大な事実なんだ。
「……」
黙りこんだまま、智子は俯いて応じない。それに小さく吐息を漏らしたなっちゃんは、手近の電話に手を伸ばした。どこかへかけた後、「あぁ俺」なんて怠慢な名乗り方をする。
「お前んとこの生徒２人、捕獲してるから迎えに来いよ」
『捕獲』なんて失礼な言葉はこの際どうでもいい。ただその短い一言だけで電話相手が誰だか分かってしまい、私は思わずビクッと姿勢を正してしまった。
…恐らく、髪から雫が滴り落ちるほどずぶ濡れになったと知ったら呆れるか怒られるかしそうだと思ったからだ。
「…バカかお前ら」
どうやら呆れた上で怒っているらしい。なっちゃんの電話を受けて数分で数学準備室まで来た本城先生は、白衣に両手を突っ込んだままそう吐き捨てた。
一連の事情を聞いて、大きく溜息をつく。
「そんな状態で探したって見つかるもんも見つかんねぇよ。明日は晴れるっつってたから、朝早く来て探せばいいだろ」
「…っ、本城には分かんないよ…！」
それまで黙っていた智子が、弾かれたように顔を上げてそう声を荒げる。なっちゃんには一言も言い返さなかったのに、あまりにも冷たい先生の言い方に怒りがこみ上げたのかもしれない。
「分かってるよ…っ、裕貴は指輪なくしたくらいじゃ怒らない！ でも、そういうことじゃないの。あれは私にとって何よりも大事なものなの！ 本城には指輪もらって嬉しい女の子の気持ちなんて理解できるはずない！」
「そりゃまたごアイサツだな」
ふん、と鼻であしらう先生に、智子はカッとより目を剥いた。
「別に本城には迷惑かけてないんだからいいでしょ！ 私が自分で探すんだから…っ」
「だから、冷静さの欠片もない今のお前が探したって見つかるもんも見つからねぇって言ってんだよ。それに、だ」
一度言葉を切った先生が、椅子に座っている智子を見下ろす。
「俺がお前の彼氏の立場だったら、今日この土砂降りん中雨に打たれながら探してたせいで風邪でも引いて、明日の約束を反故にされる方が指輪なくしたことよりも怒ると思うけどな」
「…っ」
思わず、智子が絶句する。痛いところを突かれ、目を瞠って先生の顔を見上げた。
ハラハラとそれを見守る私の隣で、なっちゃんは無表情で２人の様子を眺めている。
先生の言い分は冷たいけれど正しい。それが分かったから、智子はギリと唇を噛み締めてから立ち上がった。
「…分かったよ！ 帰ればいいんでしょ！」
「逆ギレか」
「うっさい本城！」
言い捨てて、智子は荷物を手にするとバンと大きな音を立てて扉を開き、廊下に飛び出して行く。
「ま、待って智子…！」
慌てて追いかけたい気持ちもあったけれど、私はそこでキッと先生を振り返った。自分でも珍しく怒った目で睨み上げると、先生は無表情のままこちらを見つめ返す。
「先生！ 言いすぎです！」
「本当のことだろうが」
「でも言い方ってものがあるじゃないですか…！ 智子、今すごく傷ついてるのに…っ」
「うるせぇな。お前もさっさと帰れよ。追いかけないと松浦どっか行っちまうぜ」
まともに取り合う気もないらしい先生は、私の後ろで閉まる扉を顎で指し示しながら言う。相手にもしないその態度に余計に腹が立つ。
「…っ、先生のバーカ！」
反論もできない私には、およそ自分のものとは思えない低レベルな言葉しか出てこなかった。
思わず唖然とした先生の顔を見て、それはそれでしてやったりと思わないこともない。怒った態度で私も荷物を抱えると、そのまま数学準備室を飛び出した。
…なっちゃんにお礼を言い忘れたことだけはさすがに後で後悔したけれど。
「…『バーカ』って…！ あの白石がお前に…！！ 『バーカ』って…！！！」
智子を追って廊下を走り出した私は、その後なっちゃんがそんな風に笑いをこらえて震えていたなんてことはもちろん知らない。
「うるせぇ。行くぞ、貴弘」
「はいはい、付き合いますよ本城センセー」
******
校門のところで智子に追いついて、私はそのまま自分の家に連れて帰った。一人にさせたくない気持ちが強かったからだ。
「明日朝早く、一緒に探そう」
そう言った私に力なく頷いた智子は、「ごめんね和美」と小さく謝る。
「ううん。智子の気持ち分かるもん」
「そうじゃなくて…本城とケンカしちゃったんじゃない？」
ケンカ…？ というと、少し違う気もする。ただ私が怒っただけで、先生はきっと相手にもしていない。どうせ次に会う時はまた平然としているに決まっているんだから。
「いいの。今日のあれはさすがに先生が言いすぎだもん」
「だよねー！？ あの冷静さが逆に腹立つんだよね！」
「そうそう！！」
思わずそんな悪口を言い合いながら、互いに顔を見合わせて笑ってしまう。先生への怒りに気を取られたせいか、智子もさっきよりは少し元気を取り戻しているように見えた。
「智子、今日泊まっていきなよ」
「いいの？ 受験生いるのに」
「大丈夫。祥太郎なんて受験だからって焦る気配もないんだから」
「まぁ祥太郎の頭だったらうちの高校でも落ちる心配ほとんどないだろうしねー」
笑って言ってから、智子は「うん」と小さく頷く。
「じゃあお世話になっちゃおうかな。パジャマ貸してー」
「なんかこういうの久しぶりだよね」
その頃には智子も少しいつも通り笑えるようになっていて、私はこっそりと胸を撫で下ろした。
明日は学校はもう冬休みに入っているけれど、厳しい運動部はきっと早朝から練習をしているはずだから、門が開いていないことはないだろう。。
智子とかなり早めに家を出る約束をして、そのために今日は早々に寝てしまおうと決めていた。
「電気消すよー？」
まだ２２時。いつもなら眠りもしていない時間に布団に入る。でも女子高生のお泊りは、電気を消してからのトークが長くて楽しいんだ。
天井に吊るした照明から伸びる紐を引こうとしたその瞬間、机の上に置いていた携帯が低く振動した。
誰からだろう、と思いながら手を伸ばしてそれを開く。そしてそこに届いていたメールの文面を見て、思わず目を見開いた。
「どうしたの？ 和美」
下に敷いた布団の上で、中に入ろうとしていた動作を止めて智子が首を傾げる。
「ごめん、智子…。１０分…ううん、５分だけちょっと出てくる！」
ベッドから飛び降りた私は、慌てて服に着替えて、驚く智子に説明もろくにできないまま部屋を飛び出した。
「……っ」
雨はもう既に止んでいた。家のすぐ傍にある空き駐車場…呼び出されたそこに着いた時、先生は自分の車にもたれて煙草を吸っていた。
「よぉ、悪いな。こんな時間に」
言葉ほど悪いと思っているのかは定かではない。そう短く言って、先生は車に備え付けられている灰皿に吸っていた煙草を押し付ける。
「どうしたんですか…？ 智子のことで用がある、って…」
近寄って尋ねると、先生は自分のポケットから何かを取り出した。そしてそのまま、こちらに差し出す。
促されるままに手を広げると、先生はそこに持っていた物をそっと落とした。
「松浦に渡しておいてくれ」
「…え…？」
手の平に乗った物を見やると、それはシルバーの指輪だった。小さなハートがついていて、私も何度か見たことのあるもの。ネックレスのチェーンもついたままで、確かに智子の物だ。
「先生…これ…っ」
「何が中庭だよ。おかげでほぼ全校探し回ったっつーの」
「…っどこにあったんですか？」
「昇降口」
もしかして、こんな時間までずっと探していたんだろうか…？ 智子に言い過ぎたから…？
…ううん、違う。先生は言い過ぎたことで悪いと思って罪滅ぼし…なんてことしない。恐らく、初めからそのつもりだったんだ。
智子に風邪を引かせたくないから怒らせて帰らせたことも。そしてその後、自分が代わりに探すつもりだったことも。
「…先生…」
「礼なら貴弘に言えよ。結局最後まで付き合わせちまった」
そう言われても、私は手の中の指輪をぎゅっと握りしめながら先生を見上げる。
「ありがとう、先生。智子のために」
思わず微笑んでそう言うと、先生はそれを横目で一瞥してから「どーいたしまして」といつも通り興味なさそうに呟いた。
「用件はそれだけだから。遅くに呼び出して悪かったな」
「ううん…っ」
首を大きく横に振ると、先生はようやくそこでフッと表情を崩した。
微かに笑って、私の頭をポンポンと撫でる。その優しい手つきに思わず目を丸くした。だけどそんな先生が漏らした言葉は、そんな優しい笑顔とは裏腹なものだった。
「お前最後に俺に何て暴言吐いたっけな」
「！ …あ、あれは…」
思わず一瞬でまた身を硬直させる。勢い余って自分が先生に言った言葉を思い出すと、首を竦めて体を縮めたい気分だ。
「…ごめんなさい…」
素直に謝ると、先生は「ん」とおかしそうに笑った。どうやら本当に怒っているわけでもないらしい。
「……」
完全に申し訳なさそうに萎縮している私に、先生はもう一度笑う。そしてそのまま伸ばされた手が、私の頬に触れた。
引き寄せられるようにグイと近づいた唇に、触れるだけのキスを一つ。
「おやすみ。お前が家に入るまでいるから、早く戻れ」
「…おやすみなさい」
こういう時の恥ずかしさと幸せな気持ちが入り混じった感情は、いつまでたっても慣れることはない。
恐らく真っ赤になった顔で私はそう小さく返すと、促されるまま指輪を大事そうに手の中に握り、その場を後にした。
******
自分の部屋に戻ると、智子は電気を点けたまま待ってくれていた。その手に指輪を渡すと、驚いたように私の顔を見上げる。
「先生が、今持ってきてくれたよ」
微笑んで言うと、智子は何を思ったのか黙ったまましばらくそれを見つめていた。そしてやがて、指輪が自分の手元に戻ってきた安堵からか小さく息を漏らす。
「本城…探してくれたの？」
「そうみたい」
震えそうな手の上で光る指輪を見やり、智子は少しだけ複雑そうな表情を見せる。
「…悪いこと言っちゃった。本城に」
「先生はそんなこと気にしないよ」
即座にそう答えたけれど、智子は「それだよ」と唇を少し尖らせた。
「結局、私を怒らせたのもあの場で帰らせたのも、全部本城の計算だったわけでしょ？ そういうとこが腹立つの！」
「智子…」
「全部見透かされてるっていうか…こっちが吐き捨てた暴言も全部受け流してくれてさ」
要はやっぱり申し訳ない気持ちでいっぱいだということだろうか。それが分かったから思わずクスリと笑みを漏らしてしまう。
「ん。智子が『ごめんなさい、ありがとう』って言ってたって伝えておく」
ニッコリ笑って言うと、智子はやがて吐息を漏らしてから苦笑を浮かべた。
「和美も、ありがとう。一生懸命一緒に探してくれて」
「ううん。それより良かったね。明日の裕貴くんとのデート楽しみだね」
「うん」
頷きながら、智子は枕元に指輪のついたネックレスを置く。その嬉しそうな顔を見ていると、本当に大事にしているんだなとこちらまで温かい気持ちになった。
「いいなぁ、そういうの」
思わず呟いてしまったのは、それだけ智子の笑顔が眩しかったからだ。
「和美ももらえば？ 本城に」
「えっ！？」
「もうすぐクリスマスだし、プレゼントにおねだりとか」
語尾にハートか音符でもつきそうな口調で言って、智子はもうすっかり元気になったようでニヤニヤと笑っている。
親友が立ち直ったのは嬉しいけれど、この表情はあまり歓迎できない。
「『おねだり』…！？ そんなのできるわけないじゃない…っ」
「私、これ買ってもらった時は裕貴におねだりしたよ？ 『指輪欲しい』って」
「…いや…うーん…」
智子と裕貴くんならまだいい。先生にそれをお願いするのはどう考えても違う気がするし、無理だ。
２０代後半の男の人に指輪をプレゼントさせるって、智子が裕貴くんに頼んだよりももっと深い意味が出てきそうで…。
「無理でしょ。…それに、先生ってば女心が分かってないし」
「まぁそっか。うん、そこは否定しない」
からかうように言って、智子は肩を竦める。
「そう言えば和美、あんたは本城に何かあげるの？ クリスマス」
続けて問われて、私は表情をパッと明るくする。もう既に机の中に忍ばせてあるそれを思い出しながら、「あのね」と笑みをこぼしながら言った。
「かわいいジッポが売ってたから、思い切って買っちゃった！」
「ジッポ？ って結構高いんじゃないの？」
「うん、でもちょうど今短期バイトしてるし」
別れていた数ヶ月の間に先生の誕生日は過ぎてしまったし、せめて今回は奮発したいという気持ちもあった。
「喜んでくれるといいね」
智子がそう言うものだから、私は「うん」と力強く頷く。
智子の指輪が見つかってホッとしたところが大きくて、この時私は深く考えてはいなかったと思う。
多分先生のことを、本当の意味では理解できていなかったんだ。