dream a little dream of me 2
先生がいなくなった教室で後片付けと帰り支度をしている間に、最終の下校チャイムが鳴った。もう外は真っ暗になっていて、グラウンドで部活をしていた生徒たちもほとんどいない。
鞄を持って薄暗い校舎を歩き、昇降口まで行ったけれど、その間誰に会うこともないくらい静かなものだった。
「今帰り？」
だから自分の靴を出しているところでそんな声をかけられるとは思っていなくて、私はビクリと肩を強張らせてしまった。
「随分遅いな。文化祭の準備？」
「…蓮くん…」
会わないようにしていた人に、ここで会うとは思っていなかった。どこかの教室に用があったのか、教科棟の方へ戻るところでちょうどここを通ったようだ。
「ちょっと、頼まれた仕事してたら遅くなっただけ」
「俺もちょうど帰るから車で送るよ」
「…っ、いい…っ！！」
あっさりと繋がれた言葉に、反射的に首を振ってしまっていた。そんなこちらの緊張気味の様子に、蓮くんはクスリと笑みを漏らす。
「何、警戒してるの？」
「……」
当たり前でしょ、という言葉は何とか飲み込んだ。顔をあわせないようにしていた相手の車に乗れるわけがない。
「もう暗いし帰る方向は同じだし、別々に帰る方が不自然だと思うけど」
蓮くんは、自覚があるんだろうか。噂が噂を呼んで、今では事実とは無関係の心無い話まで作られていたりするのに…。
それともそんなことは関係ないくらい、彼にとってはどうでもいいことなんだろうか。
「それより蓮くん、おばさん目が覚めたって聞いたけど…」
話を逸らそうと試み、私はそこで話題を変える。
「あぁ、うん昨日ね」
「良かった…」
ホッと息を漏らした私だったけれど、蓮くんはまた話をあちらのペースに引き戻してしまった。
「そういえば和美、文化祭のあの紙どうした？」
「…え…」
「まさかこの後に及んで小塚さんに渡したりしてないよね？」
恐らく今の時間、こんなところを通る人はほとんどいないだろう。だけどあまり大きな声でしたい話でもない。
思わず声のトーンを必要以上に落として、私は首を振って答える。
「…誰にも…渡す予定はないから」
私のそんな答えに、蓮くんは意外そうに眉を持ち上げた。
「だったら俺にちょうだい」
「…冗談でしょ？ 蓮くんと一緒に行ったら噂が悪化するじゃない。それに蓮くん、もう他の子にもらったって…」
「和美がくれるならその子には今から返すよ」
「………」
思わず返す言葉を失って、私は薄く開いた唇から吐息を漏らすことしかできなかった。
「とりあえず、車回してくるから校門で待ってて」
有無を言わさない口調で蓮くんは言い置いて踵を返そうとする。それに慌てて抗議しようとして、その腕を掴んだ。
「…だから、いいってば…！」
どう言っても聞いてくれなそうな蓮くんに必死で抗う。…ちょうど、その時だった。
「白石」
蓮くんよりも低い…バリトンボイスが心地よく耳を打つ。
暗い廊下の少し向こうからの声に、私は蓮くんと同時にそちらを振り返った。
「まだこんなとこにいたのか。さっさと車のとこで待ってろって言っただろ」
こちらに歩いてきながら、本城先生がそう言う。
「…え…？」
言われている意味が分からずにまじまじと見上げてしまったけれど、先生の方はそれを気にした様子もなく近づいてくると蓮くんにまっすぐ向き直った。
「成川先生、うちのクラスの生徒が何か…？」
尋ねられて、蓮くんも我に返ったように「あ、いえ」と少し姿勢を正す。
「こんなに遅い時間で外も暗いのに残っていたようなので…車で送って行こうかと声をかけていたところです」
蓮くんの説明に、本城先生は「そうですか」と微かに笑った。
その笑みは知ってる…。先生得意の「営業用」だ。
「俺の仕事を手伝ってもらっていたせいで遅くなったんですよ。終わって帰り支度を終えたら送っていく話になってたんです」
「…そうですか。それなら安心ですね」
本城先生の言葉に、蓮くんも少しだけ笑みを漏らしてそう応じる。だけどその彼の笑顔も紳士的な作られた笑みだった。
「じゃあ白石さん、気をつけて」
私にもそう声をかけて、蓮くんはそのまま身を翻すと歩いて行く。
「…あの…先生…」
「俺もちょうど帰るところだから、駐車場で待ってろ」
蓮くんの後ろ姿を見送りながら、「どうして」とか「ありがとうございます」と言おうとしたこちらの呼びかけを遮り、先生はポンと私の頭に手を乗せる。
それからそう言い置いて、教員用の出口の方へ向かって行った。
******
言われた通りに教員用の駐車場まで行って、見慣れた黒い車の前で待っていた。
やがて帰り支度を整えてやってきた先生に、「ありがとうございました」とペコリと頭を下げる。
「助かりました。でも…電車で帰れるので…」
「まだ成川先生がその辺にいるかもしれねぇだろ。いいから乗れ」
言って車の鍵をリモコンで開けながら、先生はそう促した。
…それは…確かにそうだ。ああ言った手前、蓮くんに電車で帰っているところでも見られたら余計に話が面倒くさくなる。
「…すみません」
謝りながら助手席に乗り込むと、先生も運転席のドアを開いた。
この前智子と乗った時は、後ろの座席だった。
助手席に乗ると距離がより近くて、胸が痛いほど緊張してしまう。それはあの時の距離感を思い出してしまって、どこか切なさに似た感情を覚えたせいでもあるのかもしれない。
「やっぱり何かあったんだろ」
車を発進させながら、先生は言う。「…え」と返す言葉に戸惑っていると、前を向いたまま微かに笑ったようだった。
「言いたくないなら言う必要ねぇけど…どうせ修司が余計な嘘ついたせいで面倒くさいことになってんだろ」
「そんな…！ 修司さんのしてくれたことは『余計な』ことなんかじゃ…！」
反論しかけた私だったけれど、先生の口元が笑っていることから本気で「余計なこと」だなんて思っているわけじゃないと気づいた。だから言葉を飲み込み、代わりに吐息を漏らす。
「蓮くんが…あんなに聞く耳を持ってくれない人だとは思いませんでした…」
「修司が変に小細工するからだろ」
「……そんな…」
「ここからは俺の予想だけど、お前、修司のことで脅されてんじゃねぇのか。結婚ぶち壊されたくなかったら…とかなんとか」
「っ、何でそんなことまで分かるんですか！」
「お前が分かりやすいから」
あっさりと言って、先生はおかしそうに笑う。
あれだけ重苦しく胸を痛めていたことだったのに、先生が何でもないことのように笑うからなんだか自分でも気分が少し和らいだ気がした。
「聞く耳を持たない人には…どう説得すればいいんでしょう」
ポツリと尋ねると、先生はハンドルを器用に片手で回しながら小さく肩を竦めた。
「そんなん俺が知りたいぐらいだ」
「……え？」
「何でもねぇ」
小さな呟きを聞き逃した私を横目で見て、微かに苦笑を漏らしたようだった。
それから少し思案するような表情を見せた後、ブレーキを踏むのと同時に再び口を開く。
「お前や修司は変にごまかそうとするからこじれるんだよ」
「…う……」
思い当たる節が多すぎて、私は返す言葉に詰まってしまった。
「ごまかすんじゃなくて、本当のこと言えばそれで済むこともあるだろ」
「……え…」
聞き返した私を、信号待ちで止まっている間に先生は振り返る。その目はさっきまでのように笑っていなかったので、なぜか胸がドクンと一度高鳴ったのが分かった。
「お前と付き合うって決めた時から、周りにバレてどうなろうが覚悟はしてる」
「でも…っ！」
それは私と付き合っている時ならそうかもしれない。
「でも…今は…」
別れた今も、そう思えるものだろうか。もう先生の中では「終わったこと」なのに。
「今も前も関係ねぇよ。それくらいの覚悟はできてる」
言って、先生は目の前の信号を見上げる。同時に青に変わったそれを見て、足元のアクセルを踏み込んだ。
「……」
思わず泣きそうになってしまい、必死でこらえる。そんな風に言ってもらえることが嬉しかった。
だけどここで本当に泣くわけにはいかなくて、私はそれをごまかすように言葉を継ぐ。
「先生…ごめんなさい、でも私、蓮くんには本当のこと言っちゃったんです」
膝の上で自分の指先を弄ぶようにしながら、下を向いたままそう言った。
「私が付き合ってたのは本当は先生だって…修司さんはそれをかばってくれただけだって言ったけど、全然信じてもらえなかった」
それどころか、余計に蓮くんを焚きつけただけのような気がする。あの時の彼の顔を思い出しながら言うと、先生は意外そうに片眉を持ち上げた。
「……そりゃあ…確かに面倒くせぇな」
苦笑い気味に言って、小さく肩を竦めてみせる。
「先生に迷惑かけることになるっていうのは、分かってたんです。でも黙ってられなかった。修司さんたちを守るためには、そうするしかないと思ったから…ごめんなさい」
「謝らなくていい」
私の言葉を遮るように、先生は早口にそう言った。
「元々は俺とお前の問題だろ。余計なこと考えなくていい。お前がしたいようにしろ」
「…先生…」
「それでもどうしようもなくなったら、俺に言えよ」
ドクドクと、鼓動が高鳴る。あまりの音の大きさに先生にまで聞こえてしまうんじゃないかと心配になる。
「修司でも他の男でもなくて…最初から俺を呼べ」
ドクン、と、この日一番大きく胸が震えた。見開いた目で見据えた先生の真剣な顔が、心臓を鷲づかみにするかのような感覚を覚える。
「…先……」
「着いたぞ」
呼びかけようとした私が最後まで言葉を紡ぐ前に、先生がブレーキをかけてそう言った。
言われた通りいつの間にか私の家の前に辿り着いていた。
「…ありがとう…ございました」
さっきの言葉に対する返事をする猶予も与えられず、私は何とかお礼だけ言う。「あぁ」と頷いた先生が、ドアを開いて外に出る私に向けて唇の端を微かに持ち上げて見せた。
「おやすみ」
「……おやすみなさい」
先生は、ずるい。
忘れないと決意した途端に、こんなの反則だ。微かにだけでも笑いかけられたらドキッとするし、あんな言葉を言われたら自惚れそうになる。
「……はぁ〜っ」
緊張し通しだったせいか、大きく息を吐き出す。その場にへたり込みたい気分になった瞬間、急に夜の闇の中から「…和美っ」と声をかけられた。
先生の車が去って行った方をもう一度振り返ると、そこにいたのは驚いた顔をした母だった。
「…お、お母さん…」
ちょうど仕事を終えて帰ってきたところらしい。自転車を降りながら、母は目を見開いている。
嫌な予感はしたけれど、その後やはりすぐにまくしたてられた。
「だ、誰！！？ 今のオトコマエ誰！！？」
年甲斐もなくミーハーな母は、慌てて駆け寄ってきて私を大きく揺さぶる。
「た、担任の先生よ…！ 頼まれた仕事してたら遅くなっちゃったから、送ってくれたの」
ガクガクと揺さぶられながらなので言葉がうまく紡げなかった。それでも何とかそれだけ言うと、母は来た方向を振り返りながらほうっとため息を漏らす。
「前に入学式の時に見た美形の先生もキュンときたけど、母さんは今日の先生の方が好みだわー」
「……はいはい」
それが娘の元彼氏だと知ってもそんな呑気なことを言っていられるのだろうか。
そんな母を置き去りにして先に家の門を開け、玄関のドアに手をかける。鍵はかかっておらず、そこに並んだ靴を見るとどうやら父と祥太郎は先に帰ってきているらしい。
そのままリビングに入ると、後ろから母が慌てて追いかけてくる。キッチンとダイニングでは父と祥太郎が一足先に夕飯の準備をしているところだった。
「おかえりー。２人共一緒だったのか」
不似合いなエプロン姿で声をかけてくる父に、「ただいま」と短く応じるも早く、母が「ねぇねぇ！！」と激しく声をかけた。
「和美の担任の先生、今そこで見たんだけど男前よね！！ こんなことならこの前の三者面談、意地でも私が行けば良かった！」
「あぁ、若い先生だったなぁそう言えば」
「若い頃のお父さんにちょっと似てるわぁ」
「え！！ やめてよ！！」
最後の母のセリフは聞き捨てならず、思わず私は声を荒げて抗議してしまった。
すると何を勘違いしたのか、父が「はっはっは」とわざとらしい声を立てて笑う。
「和美、父さんは嬉しいけどそんなに全力で否定したら先生に失礼だぞ」
「………」
的外れもいいところな父の発言はこの際スルーした。代わりに祥太郎がダイニングテーブルに頬杖をついた態勢でニヤッと笑う。
「俺も見たかったなぁ、姉ちゃんの『担任』」
全ての事情を知っている祥太郎がそう言うと、言葉通りの意味に取れない。
「……」
三人にそれぞれ呆れ顔を送っておいて、私は「着替えてくる」と一旦リビングを出て自室へ向かった。
家族の呑気な会話のせいか、毒気と緊張が一気に抜けた気がする。
先生からの言葉の意味を反芻する間もなく、その日は母の妙に高いテンションに飲み込まれてしまった。