春の日に 1
昔から勉強はできたし、スポーツも人より優れた方だった。
男女問わず友達は多い方だと思うし、いつも自分の周りには誰かがいた。
恋愛面でも困ったことは多分ない。本気で好きになった女の子がいたかと問われれば首を捻ってしまうかもしれないけれど、その時はその時なりに真剣だったはずだ。
そんな自分だったから、自惚れるわけではないけれど大した挫折を知らずにここまで来たと思う。
もちろん中学３年までの人生なんてこれから先を考えると大したものではなく、この後絶え間ない困難が待ち受けているだろうとは予測する。
だけど自分には、あと２日後に控えた高校受験でさえ不安に感じる要素が大してないんだ。
受験するのは、県内トップの進学校。普通なら多大なプレッシャーに苛まれるだろう。だけど公立だからテスト自体が難問すぎることはない。
普通に勉強してきたことが出せれば、落ちるはずがなかった。模試の結果でも学校の教師にもそう太鼓判を押されている。
「祥太郎」
その受験２日前、もうすぐ家に着くという帰り道で不意に声をかけてきた、この人からでさえも。
声をかけられた方を振り向くと、初めて見る黒い車。
だけどその運転席から顔を出したのは、知った顔だった。姉の彼氏だ。車が来た方向が俺の向かう先からだったので、恐らく姉をうちまで送った帰りだろう。
「先生、こんなに家の近くまで来てたらそろそろうちの親にバレるかもよ」
しかも彼は俺が明後日受けようとしている高校の化学教師だ。半ばからかうつもりでそう言ったけれど、先生は無表情のまま「そうか」と呟いた。
「じゃあ先手を打ってそろそろ挨拶にでも行っとくか」
「うちの親に？ 姉と付き合ってますって？」
驚いて目を丸くすると、本城先生は「冗談だ」と続ける。無表情でそんなことを言われても全く冗談には聞こえない。
人によるのかもしれないけれど、教師が生徒と付き合ってますなんて親に公言できるわけもないだろう。…少なくとも、姉が卒業するまでは。
「お前は…あー…明後日か、うちの受験」
「はい」
「まぁ何の心配もねぇだろうけど」
本城先生は、前から俺に「頑張れ」などとありきたりなセリフは言わない。いくら自信があるからと言っても、俺がそれに向けての努力を怠るタイプではないことを知っているからだ。
「気をつけるとしたら、体調管理ぐらいか」
「あと２日ですよ、大丈夫です」
「冬の風邪を甘く見んなよ。急に来やがるくせに、簡単な方程式すらすっ飛ぶぜ」
「それは先生の経験談？」
「大学受験の時は高熱で目の前を星が飛んでたな」
「それも冗談？」
「いや、これは事実」
眉を顰めながら言うものだから、俺はそこで笑ってしまった。そんな俺を見てから先生もフッと表情を緩めると、「じゃあな」とそのまま車を走らせて行ってしまった。
あまりにもあっさりとした会話だった。だから、まさかこの時は本城先生の言葉がこの後自分に重くのしかかるなんて思ってもみなかったんだ。
******
受験当日、俺は姉も通うその高校に中学の同級生３人と向かっていた。
時間には余裕を持って出た。悪天候などによる交通機関の乱れも心配ない。
このまま行けば、順調に試験を受けられる…「はず」だった。
「……」
朝起きた時に感じた喉元の違和感が、高校の最寄り駅に着いた頃には刺すような痛みに変わっていた。
意識したくはないが、加えて頭もボーっとしてきた気がする。…熱もありそうだ。
今更ながらに２日前の先生の言葉が身に染みるように突き刺さる。
油断をしたつもりはなかった。なのにこんな日に体調不良なんてツイてない。
だけどそれを言い訳にするのは違う気がしたので、友人たちの手前顔に出さないように取り繕っていた。
「ねぇねぇ祥太郎、この試験終わったら私とカラオケ行こうねー」
甘えた声で、優奈がそう言いながら俺の右腕に自分のそれを絡ませる。
「優奈ずるい！ 祥太郎は私と遊園地行くんだからー」
左腕をホールドしながら、頬を膨らませて里香が言う。それを後ろで眺めていた篤史が、「みんなで行きゃいいじゃねぇかよ」と呆れ顔で呟いている。
それがいつもの光景だから、誰も違和感を抱いてなどいないようだった。俺だけが脂汗が出そうなのを堪えながら、愛想笑いを浮かべている。
それにしても、優奈も里香も俺の腕や手に触れながら、熱がありそうだとは全く気づかないらしい。
…所詮、そんなものか。苛立つわけでもなかったけれど、漠然とそう思う。
好きだ好きだと言われて取り合うような言動があったとしても、本気で俺のことを見ているのかどうかは怪しい。
だからこそ、そんな友人関係で流せるのが楽だと思っている自分もいる。そんな俺に彼女たちのことを責める資格なんてあるわけもなく、いつも笑顔でかわすだけだった。
篤史はともかく、優奈と里香はこの高校に学力はほとんど届いていない。
記念受験のつもりなのか、「祥太郎が受けるところは私も受ける！」と憚らずについてきた形だった。
彼女たちも、俺が楽勝で受かり自分たちは落ちるだろうということは自覚しているらしい。いや、自分がそうだったように、誰もが俺が落ちるなんて思ってないだろう。
だからというわけじゃないけれど、尚更、少し体調が悪いくらいで落ちるわけにはいかなかった。
「おはようございます」
校門に着いた時、当番になったらしい何人かの在校生たちが案内係として立っていた。その中に姉の姿があり、俺たちに気づいてソツなく声をかけてくる。
「白石先輩！ おはようございまーす」
久々に会う姉に優奈が駆け寄り、それに里香と篤史も倣う。
「みんな、今日は頑張ってね」
にっこり笑って言う姉にはあまり目もくれずに、俺はそのまま校門をくぐると会場に記された矢印に従ってその脇をすり抜けた。
目を合わせなければ、多分姉にも体調が悪いことはバレないだろう。そう思ったからだ。
「先輩、私たちの合格も祈っててくださいねー」
「はいはい」
案の定、姉は優奈たちの相手で俺のことまで気にかけなかったようだ。安堵の息をつきながら抜けた先で、俺は自分の受験番号の記された教室へと向かった。
同じ学校でも…いや、同じ学校だからこそか。優奈たちとは受験番号も離され、教室も別だった。
「じゃあね、祥太郎！ 帰りも一緒に帰ろうねー」
「はいはい」
ほんの数時間離れるだけなのにまるで今生の別れのように嘆く優奈に、先刻の姉のように流して手をひらひらと振る。
そうして入った教室の一番後ろの席、用意された椅子に座るとようやく一息つけた気がした。
だけど、こんな状態が良くなるはずもない。それどころか悪化するばかりだ。
試験官の説明も頭にはろくに入らず、聞き流す程度。１時間目の数学の試験は自分が何を書いたのかもあまり記憶がなかった。
「……っ」
しかも熱が上がり続けているらしく、悪寒までしてきた。熱いのに寒い。矛盾するのに共存してしまうそれらに、シャーペンを持つ手が震え始めたのがわかる。
次は国語だ。古文だろうと現代文だろうと、長文を書かせる問題は必ずあるはず。こんな手ではろくな文章が書けないのは明白だった。
「……」
焦るな、と、そう自分に言い聞かせる。初めて押し寄せる不安にすら身震いしそうだった。
だけど…
「…あの…」
数学と国語の試験の休み時間、不意に声をかけられた。ゆるりと顔を上げると、少し机を離した先の、隣の女の子だった。
「顔色悪いけど、大丈夫ですか…？」
周りに配慮してくれたのか、小声でそう尋ねてくる。不意打ちだったのでなんと返事をしようか一瞬迷ったその時、彼女が先にポケットから何かを取り出した。
「教室寒いし…もし良かったら、これ使ってください」
手渡されたのはカイロだった。使い捨て用なのにキャラクターものだ。
「……」
握らされたそれに思わず目を丸くしていると、彼女が慌てて続ける。
「ごめんなさい、そんなのしかなくて…」
「いや、そうじゃなくて、これもらっちゃうと君が寒いんじゃ…」
「私、寒がりだからいっぱい持ってきてるんで！ 大丈夫です」
焦りながらもにっこり笑って言う彼女の顔には、「もしかして余計なことしたかな…」と不安そうになっているのが表れていた。
だからこそ、力なく笑い返す。
「…ありがとう、助かります」
俺の返事に、彼女はようやくホッとしたように笑みを浮かべた。
実際、そのカイロに救われたのは本当だ。さすがにテスト中に手にすることはできないけれど、休み時間に持っていただけで随分と震えはマシになった気がする。
試験中はポケットに入れ、休憩中に取り出す。その繰り返しの中、カイロは冷えることなく暖かさを持続していた。
だから、全部の試験日程を終えた時にすぐに改めて彼女にお礼を言おうとした。何とか、これのおかげで落第点は免れた…と思う。
いや、本当は自分でも気づいていたんだ。自分の気持ちと体調の悪さを和らげてくれたのは、そんな物理的な暖かさよりも…。
「しょーたろー！！」
隣の彼女に声をかけようとした瞬間、もう受験生たちが帰り始めたその教室内に、弾丸のように優奈が飛び込んできた。
そしてそのまま一番後ろの俺の席に走ってきて、遠慮なく抱きつく。
「終わった終わったー！！ やっと受験勉強から解放されるぅ」
「わ、わかったから、優奈…」
「約束ね、カラオケ！ あと買い物も行きたいし、映画とか…っ」
周りの生徒が「何事か」と振り返るのが分かった。そんな中、隣の彼女も驚いたように目を丸くしていたが、俺と視線が合うと「お大事に」と口パクで笑って告げるとそのまま教室を出て行ってしまう。
優奈に抱きつかれた態勢のままでろくにお礼も言えないまま、俺はそんな後ろ姿を見送るしかなかった。
本当は、気づいていたんだ。俺を救ってくれたのはカイロの暖かさなんて現実的なものじゃなくて。
長い付き合いの優奈や里香でさえ触れても気づかない俺の体調の悪さに、彼女が一目で気づいてくれたっていう事実の方だ。
しかも、誰もが自分のことで必死なはずの受験中に…。
「…ありがとう」
言えなかったセリフを優奈にも聞こえないくらいの声で呟くと、少し気持ちも軽くなった気がした。
春にまた、彼女に会えるだろうか。その時こそはうまく伝えられるだろうか。
カイロのお礼よりも、その優しさに触れたこの胸の温かさを。