It's a sin to tell a lie 13
茫然と見開いた両の目から、留まることも知らずに涙が溢れ出す。
拭うこともせずに信じられない思いで先生を見上げていると、やがて「…あ〜っ、たく」と先生はどこか呆れたような声を漏らして自分の髪をガシガシとかき回した。
「泣きすぎだお前」
吐息まじりに言った先生は、不意にこちらに手を伸ばす。「ハンカチなんて持ってねぇからこれで我慢しろ」とだけ呟いて、私の顔に白衣の袖を押し当てて乱暴に拭いた。
「…ぶっ」
遠慮なく顔面を擦られて、思わず私は変な声を出す。だけど驚いたそのおかげなのか、涙はさっきよりすぐに収まってくれた。
「…ごめんなさい、八つ当たりしました」
さっきの自分の言葉を素直に謝ると、先生は小さく首を捻った。私の顔から白衣の腕を引き戻す。
「いや…先に八つ当たりまがいなこと言ったのはこっちだしな」
「……先生が？」
返ってきた答えに、今度は私が頭に疑問符を浮かべる。先生の言葉のどこが八つ当たりだったのか分からない。
尋ね返したけれど、先生は意味ありげに微かに笑っただけで答えはくれなかった。
「収まったか」
少し顔を覗き込まれて、また一瞬身を固くする。
「はい」と小さく答えると、先生は「そりゃ良かった」とだけ言ってまた近くの棚に向き直った。
「…先生」
再び聞こえる、ファイルを捲る音。ペラ、と軽い音を立てるそれを耳にしながら私は改めてその背中に呼びかける。
「何」
振り向きもせずに、先生は次のファイルを棚から取り出していた。だけどその背中は私の声を拒む色は見せていなかったので、 おずおずと言葉を継いだ。
「さっきの、男子たちの話なんですけど…」
この中まで響くように聞こえてきた、笑い声と一緒になった言葉。それを思い出しながら、私は深く息を吸った。
「私は…教師とか年上が好きなわけじゃないです」
何となく、そこが一番ひっかかっていた。そこを一番、先生に聞かれたくなかった。
教師だからとか年上だから好きになったわけじゃない。先生だから、好きになったのに…。
彼らが噂していたのは本城先生のことではないけれど、それでもあの言葉に対して弁解じみたことでも何か口にしないと気が済まなかった。
「…今更だろ」
背を向けたまま、先生はそう小さく応じる。
そんな淡々とした…冷めた風にも聞こえる返事を受けて、私は思わず「そうですよね」と自嘲気味に笑ってしまった。
それはそうだ。先生からしたら、そんなこともうどうでもいい「今更」なことだ。
自分を嘲けるように唇を歪めた私だったけれど、その後すぐに先生が先に言葉を継いだ。
「んなこと初めから分かってる」
「…！」
続いたそんな声に思わず顔を上げると、先生もちょうどこちらを振り返ったところだった。
あっさりとした答えに私が面食らっているのを見て、「何だよ」と眉間に皺を寄せる。
…まさか、そんな言葉を返してくれるとは思わなかったから。
なんてことは言えるはずもなく、私は小さく首を横に振った。
「…先生は、優しいですよね」
「はぁ？ バカなこと言ってる暇あったらこのファイル、こっからここまで抜き出せ」
ポン、とファイルを投げるように渡されて、私は落としそうになったそれを慌てて拾い上げた。
言われるまま手を動かそうとそれを開いたところで、また少し泣きそうになっている自分に気づく。でもそれは、さっきまでの悲しみや辛さからの涙とは異なっていた。
「私は…ダメです。全然」
やがてぽつりと話し始めた私の声に、先生はただ耳を傾けていた。
特に口を挟むわけでもなく、かと言って無視するわけでもなく…。
そんな先生がきちんと聞いてくれるだろうことが分かっていたので、私は言葉を継いだ。
「お母さんのことで辛そうな蓮くんを…どうしても放っておけなかった。でも結局…こんなことになったら 考えるのは自分の保身ばかりで…私のやってることは、偽善でしかないんです」
「……」
「中途半端なことしかできなくて…」
結局のところ、蓮くんのあの暗く淀むほどの想いに応えらない私が…お母さんのことで辛いだろうからと言って一緒にいたって それは中途半端なことでしかないんだ。
噂されて後ろ指を差されたくないなんて思ってしまう自分。最後まで見守る勇気がないなら…それなら初めから、蓮くんを放っておくべきだったんだ。
そう頭では分かる。でも…やっぱり割り切って突き放すこともできなかったのが現実だ。だから、一番半端で偽善的なのは自分に違いなかった。
今になって、智子の言葉が分かる気がする。
智子は、先生はあの時由香子さんに死ぬと言われて単純に放っておけなかったんじゃないのかと言った。私が蓮くんに同じことを言われたらどうか、とも。
確かに、同じ状況なら私でも蓮くんを放っておくなんてできないと思う。
でも先生はあの時…由香子さんのところに行っただけじゃなかった。そうするために、私との別れやなっちゃんとの確執を迎えることになる覚悟はあったはずだった。
保身に走りたがった私とは、覚悟が違う。それが本当の優しさな気がした。
「中途半端の何が悪いんだよ」
作業する手は自然に止まり、下を俯いた私にやがてそんな声が降り注いだ。
ファイルを捲るのをやめて、先生は立ったまま私を見下ろしている。顔を上げてそんな先生と目が合い、思わずその言葉に目を瞠った。
「一度首つっこんだら最後までそいつに付き合うって？ それこそ驕りだろ。そんなに何でもできる人間か、お前は」
「…っでも…！」
お母さんのことで辛い時は蓮くんの傍にいて、でもそれ以外では私は彼の気持ちには応えられない。そんなのは身勝手じゃないのか、と思う。 結局はいつか、彼を突き放す時が来るんだから。
「人間が誰かのために何かをする時、そいつの全部を受け入れてやるなんて無理だ。ましてや一から百まで付き合ってられるか。家族でも恋人でもないなら尚更だ」
「……それは…」
「一時でもいい。誰かがいてくれればそれで救われることもあるんだ。成川先生の母親がどうしたのか知らねぇけど、その時はお前がいてくれて 確実に救われただろうと思う。それでいいじゃねぇかよ。お前ができるのはそこまでだろ？ それともお前にそれ以上何ができるんだよ」
「何も…できません」
小さく認めると、先生は「ほらみろ」とため息まじりに呟いた。
「成川先生にだって他に友達なりなんなりいるだろ。お前が救いになってやれない部分は、誰か他の人間がやる。人はそうやっていくつ もの関わりを持っていくもんだろ。１対１で死ぬまで付き合うわけじゃあるまいし」
「……」
「あんまり気負うな。お前はお前にできることだけやればいいだろ」
「……っ」
泣き出したい気持ちにかられて視界を揺らすと、先生が「それ以上泣くな！」と少し慌てて言うものだから思わず笑ってしまった。
「泣いたり笑ったり忙しいな、お前」
そう言った先生は呆れたように吐息を漏らして、今度こそ棚に向かってそれまで広げたファイルを片付ける作業に戻る。
「先生は…やっぱり優しいと思います」
私もさっき託された作業を再び開始しながら、そう呟いた。
「俺が？」
鼻で笑うような問いに、私はそれでも力強く頷く。
「智子に前に言われたんです」
そう告げて智子の話をすると、先生は黙って聞いていた。
先生が、由香子さんのところへ行ったのは長年の情から彼女を放っておけなかったからじゃないかという話を。
言いながら、私は漠然と思う。もしこれで、先生が本当に彼女のところへ行ったのは単純に「死ぬ」と言われて放っておけなかっただけだとしたら…。そこに、私があの時勘違いしたような愛情とかそういうものは本当になくて、人間としての情のようなものだけだとしたら…？
私は、どうするんだろう。どうしたいんだろう。
もしかしたら全て納得できて…戻れるだろうか。そんな淡い期待を漠然と胸の内に秘めてしまっていた。
だけど、現実はそう甘くはなかった。
「…松浦に言っとけ」
無表情を少し不機嫌そうに歪めて、先生は冷たく言った。
「買いかぶりすぎだ、ってな」
ファイルをしまい終えて、棚をパタンと閉じる。それから私の手の中にある書類を引き抜いた。
「俺はお前みたいに、『情』だけで誰かに優しくなんてできねぇよ」
言われた言葉を反芻する前に、先生が「これ、悪ぃな」と私が取り出した書類を少し掲げて「ありがとう」の意味でそう言う。
そしてそのまま身を翻して資料室を出て行く姿を、半ば茫然としながら見送った。
情だけじゃ優しくできない…？
それじゃあ、やっぱり先生は由香子さんのことが……。
「バカみたい」
一瞬でも何を期待したんだろう。そんな自嘲気味な言葉が漏れた。
あれほどグルグルと思考が同じところを回るのに嫌気がさして、もう忘れようとしていたはずなのに…まだ未練が捨てきれないでいたのか。
そんな自分に呆れると同時にため息が零れた。そのせいか、もう涙が出ることはなかった。
******
私が表面上は飄々としていたせいか、放課後になる頃には一部の生徒はもう噂に飽きてきたようだった。
前から蓮くんのファンを名乗っていた女子生徒からの視線はまだ痛い気がしたけれど、それ以外の子たちからは今まで通り普通に話しかけられるようになった。
元々、信憑性の疑わしい噂として信じていない子だっていてくれたようだ。
そんな子たちがいてくれたことと、先生が私の話に理解を示してくれたことで随分と気持ちが軽くなっていた。
文化祭の準備も普段通り接してくれる女子のおかげでいつも通り参加することができたし、男子からの興味津々の目も幾分かマシになったようだ。
「…疲れた…」
帰り道、「うーん」と伸びをしながら思わずそんな声を漏らしてしまう。
最寄り駅から家に向かうその時、もう時刻は１９時を回る頃だった。
今日の夕飯は祥太郎が当番だし、それを食べたら早めに寝よう。明日も続けて遅刻するわけにはいかないし、実際今日は色々とあって疲れたから…。
そんなことを考えながらもう暗くなった道の角を曲がると、そこに誰かが立っていることに気づいた。住宅街で地元の人しかろくに通らない細い道。誰かが帰宅するために通るならともかく、 立ち止まる人なんてそうそう見かけない。
だから私は、目を見開いてその暗がりの人物を見つめてしまう。その相手が待っているのが、自分だとすぐに分かったからだ。
電信柱を背もたれにして、どれくらい待っていたんだろう。星でも眺めていたのか、仰向けていたその顔がやがて私の視線に気づいてこちらを向く。
「和美ちゃん」
私を視界に捉えて、修司さんはあのいつもの優しい笑顔を浮かべてみせた。
「ど、どうしたんですか…っ？ こんなところまで…！」
確かに、私の家へ向かうにはここを必ず通るから待ち伏せるなら見失わない一番良い場所だ。実際に、先生が何度か私を待っていた時もここだった。
慌てて駆け寄ると、電信柱から「よっ」と身を起こした修司さんはポケットに手を入れたまま私の正面に立つ。
「返事がないから、会いに来ちゃったよ」
「…あ…」
「俺があんな嘘ついたから、結局和美ちゃんに迷惑かけちゃったんじゃないかと思って心配になって」
苦笑い気味に言う修司さんは、どこか自嘲するように言葉を選んでいるようだった。
…そう、あの後修司さんとは電話で一度話したきり。その後昨日の夜蓮くんにあんなことを言われたせいで、修司さんだけでなく諒子さんからのメールにも丸一日返事を出せないでいた。
だって、私が修司さんに近づけば蓮くんが何をするか…。そう考えるだけで、身震いしてしまう。
「…和美ちゃん、あの元カレの先生に何か言われたんじゃない？」
「…！……」
慌てて首を横に振ったけれど、うまく声を出して返事はできなかった。そのせいで逆に肯定しているようなものだったのか、修司さんは私をまっすぐ見つめて小さく息を吐く。
「…ごめんね、その可能性も考えなかったわけじゃないんだけど…」
「ち、違います！」
修司さんが謝ることは何一つない。それどころか、あの場でああ言ってくれなかったら今頃もっとどうなっていたか分からない。
あの時修司さんの「嘘」に私が救われたのは本当なんだ。
「大方、俺のこと調べられたのかな。なんか俺の周辺でかぎまわってる奴がいるって聞いたから…」
「……」
「でもそれで和美ちゃんが責任を感じることないんだよ」
「…でも…っ」
私のせいで、修司さんと諒子さんの結婚が破談になったりしたら嫌だ。言葉にはしなかった私のその思いを読み取ったのか、修司さんはまた一つため息を漏らす。
苦笑い気味なそれを浮かべて、少しかがむと私と目線を合わせるようにして覗きこんだ。
「あの王子サマ先生に邪魔されたくらいで、俺と諒子が別れるわけないよ」
「でも…っ」
それは、私だってそう思いたい。でも…蓮くんの、底知れない闇からは何が出てくるか分からない。
どんな手段を使うのか…場合によっては、いくら修司さんと諒子さんでも…。
「和美ちゃん」
少し強張った声で呼ばれて、私はビクリと肩を震わせた。
怒られるかと思ったけれど、修司さんは「仕方ないなぁ」と呟きながら小さく笑っていた。
「いい？ あの嘘は、俺がついたものだし俺の責任。和美ちゃんは自分が何を一番に守らなきゃいけないのか、ちゃんと考えなきゃ」
「………はい」
本当なら「でも」とまだ続けたいところだったけれど、修司さんの言葉に有無を言わせぬ響きがあったので思わず私は頷いてしまう。
返事を継ぐこともできずにいると、修司さんは私がきちんと納得したと思ったのか満足そうに「よし」と笑った。
「……」
ただ、その誰をも魅了しそうな笑顔もすぐに消える。
ふっと表情を消した修司さんの視線の先が私の後ろに向かっていることに気づいて、「？」と首を捻りながら私もそちらを振り返りかけた。
…その時、だった。
私が状況を把握するよりも早く、後ろに近づいてきた「誰か」にグイッと引き寄せられる。
抱き寄せるようにされながら修司さんから引き離されるのを自覚した瞬間、私はようやく自分の斜め上を見上げることができた。
「…蓮…くん…！？」
呼びかけが半ば疑問系になってしまったのは、私を後ろから抱きしめるその「彼」がいつもの彼じゃなかったからだ。
見たこともない……無に近いのに、足が竦みそうなほど恐怖を感じる冷徹な表情だった。
その見る者を射抜き殺しそうなほどの目は、私など見えていないかのようだった。ただ、睨むように正面の修司さんだけを見据えている。
「…蓮くん…っ」
名前を呼んでも、何の意味もない。漠然としているのに大きな不安が胸をよぎった瞬間、私は蓮くんの腕の中で今度は修司さんの方を振り返った。
「王子サマのお出ましか」
ニヤッと笑って言うその彼の表情も…さっきまで私と話していた人とどう人物だとは思えないくらい、見たことのないものだった。
２人の間を流れる言いようのない空気に、思わず私は身が竦むのを感じていた。