It's a sin to tell a lie 14
「……っ」
すぐ横をすり抜けていく風が、さっきまでよりも冷たく感じたのは気のせいじゃないはずだ。
唇を歪めて笑う修司さんと、ピクリとも表情を変えないまま冷めた視線で相手を睨む蓮くんを思わず交互に見比べる。声すら発することもできず、一触即発の空気がただ流れた。
感じ取れたのは、この空気からこれが初めてではないんじゃないかということ。私の知らないところで、２人の間に言いようのない確執が生まれているのが見て取れる。
…もしかしたら、あの日私が早く帰ったバーで、あの後…？
ゴクリ、と息を飲むのと、修司さんがふっと表情を崩すのが同時だった。
「和美」
蓮くんの前での「元カレ」仕様な口ぶりで呼ばれ、私は「…はいっ」と妙に身を固くしてしまった。
「今日は帰るよ。王子サマがご立腹みたいだし」
揶揄するような口調でそう私に告げた修司さんは、ポケットに入れた手はそのまま少し前かがみの態勢から蓮くんを見上げる。
「じゃーね、センセー」
「………」
それに蓮くんが応じることはなかったけれど、修司さんは気にした様子もなく軽く身を翻す。そして背を向けたまま後ろ手に片手をひらひらと振ると、いともあっさりと夜の闇に溶け込んでいった。
「…和美」
それを半ば茫然と見送っていると、やがて低い声が斜め上から降ってくる。その声音にハッと肩を強張らせて見上げると、蓮くんは少しだけ私を拘束する腕の力を緩めた。
「昨日の俺の話、聞いてなかった？」
「………」
返す言葉がすぐには出てこなかったけれど、一瞬の隙に蓮くんの腕から抜け出る。体ごと向き直ってその顔を仰ぎ見ると、欠片さえも笑わない真剣な目と視線が合った。
「…それより蓮くん、おばさんの様子は…」
「あの人の結婚がうまくいくかどうか…和美次第だって言わなかったっけ」
話をすりかえようとした私の言葉を、蓮くんはまるで何も聞こえていないかのように遮る。代わりに改めてそう告げられて、私は一瞬息を飲んだ。
だけど、私だってここで引くわけにはいかない。グッと体の横で拳を握り締め、蓮くんをまっすぐ見上げる。
「そんなこと、今どうだっていいでしょ！？ おばさんの体調が悪い時に…」
「甘いよ、和美」
耳を這うような低い声音が、恐ろしいくらいに冷たく響いた。そのせいで、思わず続けようとした言葉を飲み込んで押し黙らされる。
「それとこれとは別だよ。母親の意識がないから…俺が引くとでも思った？」
「蓮くん！」
尋常じゃない。そう思って目を覚まさせるかのように声を上げたけれど、蓮くんの表情はピクリとも変わらなかった。
その現実に、愕然とする。
「…一体蓮くんは、どうしてほしいの？ 私にどうしろって言うの！」
もう正面からその顔を見ることはできなかった。わずかに目線を逸らして、私は言って唇を噛む。ギリ、と音がした気がしたけれど、血の味が口内に広がることはなかった。
「言っただろ、和美があの男と会わなければいい」
「そんなの私の勝手じゃない…！」
「そう、和美の勝手だよ。だから邪魔するんじゃないか」
そう言った蓮くんの言葉はようやくそこで笑みを含んだようだった。だけど逆に、その事実が背筋を凍らせる。
ゾッと悪寒が駆け巡った気がした瞬間、言いようのない恐怖で立ち竦みそうだった。
蓮くんは…本気だ。きっと、どこまでも。
平気で修司さんと諒子さんの結婚パーティーをぶち壊すことぐらいするに違いない。
自分が…お母さんのことで精神的に参っている時でも…。…いや、もしかしたら…そういう時だからこそ…？
「……」
グッと息を詰めた瞬間、思い出したのはさっきの修司さんの言葉だった。
『和美ちゃんは自分が何を一番に守らなきゃいけないのか、ちゃんと考えなきゃ』
…今の私にとって、それは考えるまでもないことだった。
一番に守らなきゃいけないものがあるとしたら、それは「自分自身」ではない。ただ、私なんかを身を挺して守ってくれる人たちを守りたい。
自問するまでもなく心はそう決まっていたので、私は今度こそ強気な視線で蓮くんを見上げ直した。
「…蓮くん」
呼びかけた私に、蓮くんは無表情のまま首を傾ける。それを一瞥してから、私は大きく息を吸った。
……先生、ごめんね…。
でも私は、どうしても修司さんと諒子さんを守りたい。
蓮くんに２人の邪魔をされたくない。だけど私に彼を止める方法はこれくらいしか思いつかなかった。
そもそも突き詰めれば、今回の一連の事態は私の責任であり、元々私と先生の問題だったはずだ。
蓮くんに本当のことを話したら、どうなるだろう。今度こそ周囲に知られることになるかもしれないし、私だって今日学校で興味本位の視線にさらされた程度の事態じゃすまないだろう。
でも、蓮くんの時とは違う。先生と付き合っていたのは事実だし、そのことで何かを言われても私はきっと耐えられる。
本気で好きになった人となら…たとえ今隣にいることはできなくても、一緒に堕ちてもいいと思えるから。
「嘘を、ついてた」
静かに告げ始めた私の声は、驚くくらい掠れていた。
先生ごめんねと、心の内でもう一度呪文のように繰り返す。できれば迷惑をかけたくない…。でも、元々関係のない修司さんと 諒子さんを傷つけるのはもっと嫌だ。…先生なら、分かってくれる。そう信じたい。
「修司さんは、元カレなんかじゃないの。あれは…私のための嘘だった」
一大決心をして話し始めた私は、言い淀むことなく続けた。
「あの時あそこに、前に付き合っていた人がいたのは本当。でもそれを相澤先生や蓮くんに知られたくなかった。だから…」
「……」
「だから、そんな私のために、修司さんがあんな演技までして私を助けてくれたの」
言った私に、蓮くんは冷めたような…まるで機械のように感情の読めない視線を注ぎ続けている。私の言葉で、表情に変化は全く見られなかった。
そんな彼を見上げながら、一歩も退かない気持ちで握った拳にグッと更なる力をこめる。
「それくらい、私にとって知られちゃマズいことだったから…。蓮くん、私が付き合ってたのは修司さんじゃない」
一度言葉を切って、私は開いた唇の隙間からスッと息を深く吸った。
「本城先生なの」
告げた瞬間から、何かが音を立てて崩れ去って行く気がする。
それは先生と付き合っていた時の幸せな時間の思い出だったのか…。それとも、今まで過ごしてきた平穏な毎日だったのか…。
定かではなかったけれど、この一瞬でそれら全てが私の手だけではどうしようもない遠いところへ委ねられたのだけは分かった。
蓮くんが、この事実を聞いてどうするのか…。
それはもう私がどうこうできることでもない。
「………」
私の話を黙って聞いていた蓮くんの表情が、またスッとあの「無」に変わる。
暗がりの中で対峙するように向き合った私たちは、そうしてしばらく睨むように互いを見据えていた。