『雫に浸る夜』


1 雫


心の振動

黒い水たまり

頭の中で、重く、淀む。

灰色のミドリの混じる空

切り取られた空気

透明な水

水と、雫。

揺れる、黒い、アナタの目。

手伝ってあげる。

アナタの見てる、その景色。

いつも、一緒に、いつまでも。

傍にいてあげるから。

綺麗なままでいてね。

ずっと。




そこは、都心にある小さなテナントビルだった。
周囲を見るとスーツ姿の会社員よりは旅行者の姿が目立つ、飲食店の多い町並みだ。
終業時間なのだろうか。やけに人が多い。

桜に似た花をつけた、とても小さな木がそのビルの入り口に立っていた。
しばらく降っていない雨のおかげで、散った花は桃色のまま道路の隅に積もっている。

階段で4階まで登り、冷たい扉を開けると、フロア全体が開けた空間になっていることがわかる。
パーテーションで細かく区切られた中に、デスクが３つずつそれぞれに並んでいた。

パソコンを叩く音が、微かに聞こえて来る。

指定されていた区画に向かい、デスクの上に置かれていたパソコンを立ち上げた。
起動に時間がかかるシステムだ。パスワードを入力し、待ち時間で新聞を読む事にする。

今朝、指示書と一緒にポストに置かれていた新聞だった。
指示書には、時間と、この場所が書かれている。

新聞は、４つあった。出版元はバラバラだ。
そこには赤いサインペンで殴り書かれた線が、同じような内容の記事を囲んでいる。

だいたいの見出しは、こうだった。
『またも犠牲者か』
『Ｃ大学生誘拐事件！』

見ると、パソコンが動く状態になっている。
インターネットに繋いで、打ち慣れたアドレスを入力し、
それぞれ違うパスワードを３回ほど打ち込んで、ようやくその画面にログインした。

ここで最後のパスワードを入れる。

ID：Utopia
Passward：NoPlace

これを打つといつも、
子供の遊びを見た時と同じ心境になる。

今も、同じ。




「怖いなあー、朋希ーコレ見た？」
シャンプーの箱を開けて、棚に並べようとしていた青柳朋希は、
その声に顔を上げた。

「何の事？」
「これこれ！Ｃ大生の誘拐事件だって！お前Ｃ大じゃん？」
「は！？誘拐！？」
聞き返しつつも”何言ってんだ？”といった表情のまま、青柳は相手が差し出した新聞を受け取った。

青柳朋希はＣ大学の２年生だ。大学１年になってからずっと、このホームセンタ『ラスパ』でアルバイトをしている。
青柳に話しかけてきたのは、同じアルバイトの遠野浩一だ。
違う大学に通っているが、この店で知り合った中では一番親しい。

遠野は「ほら、見ろよコレ！」と、新聞の中の記事を指差した。

幾つかの写真と、大きな縦書きの文字が青柳の目に入る。
『またも狙われたＣ大学生！４人目の犠牲者』

「あ。ホントだー…へえ、去年とかもあったんだ？」
「そうだよー！Ｃ大のヤツ誰も何も言ってないの？」
「聞いた事ないなあ…」
「授業、ちゃんと出てる？」
「行ってるよ、他のヤツとあんま話さないだけで」
「おいおい」

笑っている遠野を横目で見つつ、青柳はその記事をもう一度読んでみた。

事件のあった日は２日前だ。
要約すると、Ｃ大学に通う独り暮らしの青年が行方不明になった、という内容だった。

記事によると、２年前から合計４回、Ｃ大学生が誘拐されている、とある。
今回の事件も数に入れるとちょうど不吉な数になる、ということで
紙面には大きくその数字が書かれているようだったが。
これだけの話なら、関連性は一見なさそうに見える。

この事件の犯人が同一であるとされている根拠は、メールだという。

「…失踪後、被害者の携帯電話アドレス宛にメールが届いているのを関係者が発見…」
青柳が記事を読むと、「それそれ！」と遠野が背後から青柳の手元を覗き込む。

「怖いよー！書いてある文が『いただきました』だってさ！」

遠野の顔を押し戻しつつ、青柳はそのメールを写したと思われる写真を眺めた。
文面だけがクローズアップされているが、書かれているのは確かにその一言だけのようだ。

「…どーゆー意味かな」
「そりゃー…いただいちゃいました、って事でしょー…」

だからそれはどういう意味なのか、と一瞬考えた青柳だったが。
それよりも、メールを送る、という行為についての方が気になった。

「これって送信元とかですぐ犯人わかりそうじゃ…」
「…あー…そうだよねえ、そういえば」
「何で未だに捕まってないのかな」

「こーらー！」という声がして、青柳の手から新聞が引き抜かれる。
「げ！店長！」と言ってしまったのは遠野だった。

「げ、とは何だお前！仕事に戻れほら！」
謝りつつも、笑いながら新聞を手にした遠野が持ち場に戻って行く。
「すんませーん」
青柳も軽く言って開封途中のシャンプーの箱に手をかける。

別段怒っている様子もない店長は、おう、と軽く応じ、手にした新聞を見た。
「Ｃ大学なー、気をつけろよ青柳ー」と言って、カー用品部門の方へ歩いて行く。

「そうっすねー…」
返しつつも、こういった事件に対してはどう気をつけたらいいものなのか、一瞬青柳は考えた。

誘拐事件なんて、ドラマか探偵モノの漫画の話としか思えない。

だいたいの話が、金持ちの家の娘だか息子だかが誘拐されて、身代金の要求なんかがあって、
その受け渡し場所にこっそり警察が着いて行って…

…くだらね。

ため息をついて、開けた箱から商品を出して並べて行く。並べ方にもコツがあるのだ。

こういった単純な作業が、自分には案外合っている、と。自覚する瞬間が青柳は好きだった。


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