「砂時計」の２階の窓から見えるのは、ここへやって来る大学生か、
近所に住んでいる人間の通り過ぎる姿が大半で、
それは大学が近くにある店としては、ごく自然のことなのだが。
しかしさすがに20時を回ると帰宅するスーツの男性が通るということに、
若林衣莉は今になって気づかされることになっていた。

それは他ならぬ、衣莉の“恋人”である藤原恭平が、スーツを着て会社で働くようになったからである。

今日も衣莉は１人で、店に来てからずっと窓の外を見続けていた。

「就職活動」なんてものを恭平が始めた時は、真新しすぎるスーツを着た姿に笑ってしまいながらも、
内心では（かっこいい）などと舞い上がってしまっていた自分を思い出す。
そして、そのスーツがすっかり馴染んで見えるようになった頃には、
月に１度会うことすら出来なくなったことも。

衣莉が「砂時計」に来てから１時間が過ぎていた。
開いたままにして置いてある携帯の画面が真っ暗になり、
衣莉がネイルを塗るのに失敗した左手の薬指が緩慢に動き、
電源ボタンを押す、という流れがその間に何度となく繰り返されている。
その横に置かれているカフェモカはとっくに空になっていて、
器にわずかに残る液体はほぼ乾いてしまっているように見えた。

衣莉はそれを眺めて、自分の家ならすぐにでも洗ってあげられるのに、と思う。

それならマスターに頼んで食器をさげてもらえば良いのだが、
そのまた横に置いてあるチーズバーガーが残ってしまっているから、「片付けて」とも言いにくい。

大好きな味なのに、量がやっぱり少し多すぎるから、とか。
だけど今日は恭平が「間に合うから」と言っていたからオーダーしてしまったのに、とか。
今更食べてもらうにしても、結構冷めてしまっているし、とか。

そんなことを考えていた衣莉は、
ふと、視界を横切ったスーツに反応して窓の下に目線を戻した。
しかし、目線がその男性にたどり着くよりも先に、それが恭平でないことがわかってしまい、
うなだれるようにして窓に額をくっつける。

あんなオジサンと間違えるなんて。

ごめん、と呟きながらそれでも現れない恋人を想うと、
ふと最近友人に言われてしまった言葉を思い出してしまっていた。

「ツキイチで会えないのに会ったらヤルだけってそれ終わってない？」

今になって反芻しても、酷い言葉だ、と思うのと同時に、そうかもしれない、と思ってしまう。
だって本当に、言葉にしたらその通りだから。

確かに告白したのは衣莉からだった。
しかし恭平が自分を好きになってくれたら付き合って欲しい、と告げて、
結果的には付き合おう、と言ったのは恭平だったのだ。

そう、だって、恭平が就職した時も、最初は週イチで会っていたし、
恭平も仕事の話をしてくれたし、愚痴だって聞いてあげられていたし…

だって、そう…だから？

始まりは確かに恋愛していたはずなのに。
もう過去になってしまっている恭平の言動から、自分が安心できる理由を探していることに気づいてしまい、
衣莉は大きくため息をつく。

最近見た恭平の姿を思い出そうとすると、
「疲れている」と言ったきり、話さなくなってしまったり、
それはまだ良い方で、一言も話さないまま、先に眠ってしまったり、
これは良いのか悪いのか判らなくなってしまったけれど、話さないまま抱き合って
そのまま朝になってしまったり…、
そんな姿ばかりだから、
衣莉の大好きなあの低めの静かな声をいつ聞いたきりなのかもう忘れてしまっているのだ。

メールの受信音。

欲しいのは、この音じゃない。

メールフォルダを開くと、「サークル」のフォルダに新着メール１件の表示。
衣莉は１度、「恭平」のフォルダを開き、
知っているはずであるのに、その受信メールの最新日が３日前であることを確認した。
「サークル」フォルダのメールは３日前のものなんてスクロールさせるのが面倒なほど下にある。

新着メールには、『来た？』の文字。

衣莉が『まだ』と返すと、その返事を知っていたかのようにサークルの友達が３人ほどやって来た。

「ほらあ、ダメだって社会人はー」
「べっつにーチーズバーガーおいしいし良いのー」
「食べれてないじゃん」
「これから食べるの」
「もうさ、ガーッと言っちゃえば？他の男作るー！とかさ」

ほんの少しだけ、胸の奥で疼くような痛みを感じながら、衣莉は言い返す。

「仕事中に電話してやったもん」
「おお！やった？」の声と同時に「え？大丈夫？」と聞かれてしまった。

わかってる。そんなこと。

だけど。

「返事は？」
「−ない」
「えー？怒ってないー？」
「怒ってるのは私！もう！カラオケ行こ！」
「おー！そうだ行っちゃえ行っちゃえ！」

衣莉は戸惑っている女友達の視線を見ないようにして通り過ぎ、
「カラオケー！」と盛り上がっている男友達の背中を勢いに任せて思い切り叩く。

「いてえ！」
「うるさい！」

伝票を持って１階に降り、友達が先に店の外に出ている間に会計をしようとして、ふと、
衣莉はカバンの中からマーカーペンを取り出した。

「斉藤さん！これあのバカにつけといて！」

“バーカ！”と書いた伝票を見せられたマスターは一瞬驚いて、
「ああ、はいはい」とそれをごく自然に受け取ってくれる。

心の中で、「こんなの八つ当たりだ」と判っていながらも、
次に口から出てきた言葉は「ごちそうさま」だけで、衣莉はそのまま店を飛び出した。

困らせたいわけじゃないんだ。

マスターも、もちろん恭平も。

だけど、そう、さすがに仕事中に電話すれば、不機嫌な声だけでも聞けるかも、と思ってしまったのだ。

結果的には、電話もメールも返ってこないまま、待ち合わせにも来なかったけれど。

もう私には、愚痴も文句も言ってくれないのか、と。

それ以上考えたらダメだ、と衣莉はすばやく頭を切り替える。
カラオケで全部発散するんだ、と自分に言い聞かせて友達の横を歩き、話に加わることにした。

誰かといれば、悪いことも嫌なことも考えなくてすむのに。

恭平だって、私といて仕事の疲れが取れるというのなら、会ってくれるはずなのに。

ー私じゃダメなの？

衣莉は友達と芸能ニュースのことなんかを笑って話しながら、
頭の片隅ではやはり恭平のことばかり考えてしまっていて、無意識に「砂時計」の方を振り返っていた。

ドアにはめ込まれた磨りガラスの向こうは、淡いランプに照らされたカウンターがぼんやりと浮かんで見える。
衣莉が振り返った時はちょうど、
マスターがその上に置かれた小さな砂時計を逆さまにしているところだった。