『雫に浸る夜』



3 夕暮れを過ぎて


「君が、アクア？」

黒い綺麗な闇の中で、生きている人間がそう言った。
その名前を、俺の名前だ。そう思った瞬間、自分の手が勝手に相手の動きに反応していた。

ちらり、と。濡れたような青白い光が見えた気がした。

男の影が、視界を塞ぐ。首元に、細く冷たい感触が走る。

反応した俺の手は、銃口をベッドへと向けていた。
もう片方の手は相手に掴まれて、壁に押さえ付けられている。

肩が壁に触れて。
その後すぐに、背中と後頭部も壁の冷たさを感じ取る。

首元にあてられた金属が冷たさをなくして、鋭い圧迫感だけが残った。

「…誰だ？」

声は出る。切られていたら当然痛みがあるのだろうが、それを思わず確認してしまっていた。
まだ繋がっている。頭と体。
切り離されて、価値のあるものはどちらだろう？

「顔を見るのは初めてだね」

間近にあった口元が笑う。
色素の薄い目と髪の、少年だった。
いや、歳は、俺と同じくらいなのだろうか。

「ローズ？」
「当たり」

今度は声を出して少年が笑う。
ユートピアの、回線の中で何度か会話をした事がある相手だった。
会ったこともあるはずだが、確かに顔は見ていない。

空調の音が、ノイズのように聞こえて来る。
さっきまでは感じなかった。
闇とは違う、視界を遮られた暗さが落ち着かなかった。

間近で、人の声がする事も。

「…離れてくれないか」

そう言ってみたら、ローズは目を見開いたようだった。
黒い視界の中で、瞳の部分だけは闇に似て。
水のように、光る。

掴まれていた手首が離されて、ベッドの向こうにある窓が視界に映った。

首元の圧迫感は、一点になる。
まっすぐに伸ばされていた、ローズの腕。

そのまま突かれたら、すぐに死ねるのだろうか。

「…死にたいの？」

薄く、開かれた唇がそう言った。
瞳が揺れて、水面を連想させる。

死ぬ瞬間を、想像した。

きっと、ほんの一瞬、痛みを感じるだけなのだろう。




講義の終わった教室を出たところで、携帯電話の振動がショルダーバッグごしに伝わって来る。
青柳朋希は持っていたペットボトルをバッグに仕舞うと、変わりに携帯電話を取り出した。

画面には、『今ドコ？』の文字。
遠野浩一からだ。

「なになにー？友達？」と横から覗き込んでいるのは、先程まで同じ講義を受けていた木ノ崎綾だった。何故かは知らないが、講義を受け始めてからずっと青柳の隣に座って話しかけて来る女である。

見られて困る内容ではないが、携帯電話を覗き込まれるのは良い気分ではない。

青柳は、自然な流れに見えるように画面を閉じると「バイト先の友達」と答え、歩き出そうとした。
教室から出てすぐ横の階段を下る。そこからすぐ横の開いた扉から出ると、そこはもう校舎の外だ。
朝から雲の多い日だった。空を見上げると、さらに濃くなっている灰色の雲。
傘を持って来ていないことが気になった。

「えーなになに？これからデート？」と言いながら、木ノ崎がまだ着いて来る。
「男だよ」
「へー見たいなー行って良い？」

もう来てるじゃないか、と言いそうになったがそこは抑えて。
「まあ…」と曖昧に言っておいた。
会話の機能なんて大した事はないな、とこんな時に青柳はいつも思う。

「青柳君の友達ってどんな子ー？」
「普通の子」
「普通って何ー？かわいそー」

かわいそう？

声を出して笑う木ノ崎を見て、青柳はほんの一瞬だけ、その意味を理解しようとしたがすぐ止めた。
遠野に『図書館に』とメールを送りつつ、自分も図書館の方へ向かうことにする。着いてくるつもりらしい木ノ崎のことはもう気にしないことにした。会話をするだけで疲れてしまう。これは青柳の昔からの特徴だった。特に困っているわけでもないので直す気はないのだが。

送信後、１分と経たないうちに携帯電話が振動した。
液晶画面には『遠野浩一』の文字。
通話ボタンを押す。「はいはい」

『朋希？図書館てドコだよ、知らねーよ俺』
そういえば遠野はＣ大学に来た事がないな、と今更思い至った。

木ノ崎が覗き込んで、「友達？」と聞いて来るのはとりあえず無視しながら、
青柳は「今どこにいる？」と聞いてみた。

『えーと、駅から出てすぐ見えた門っぽいトコ』
「あ、じゃあそこ入って左に曲がってしばらく歩いて」
『歩いて？どこまで？』
「すぐ行くよ」

図書館に向かう道を引き返す。
突き当たりの道を右に折れると、遠野の言っていた門が見える。遠野が歩き過ぎたとしてもこちらからなら見えるはずだった。青柳は道の向こうを見ながら歩く。
木ノ崎も飽きる事なく着いて来る。暇なのだろうか、と思った青柳だが、もちろん口にはしない。

「あ、あの子じゃないの？」
指を指して「ほらほら」と言いながら青柳は背中を押され、腕を持ち上げさせられた。
「キョロキョロしてるし、そうでしょ？かわいー！何て名前？おーい！」
青柳は何か言おうと思ったが、面倒なので黙っていることにする。

遠野が気づいたようだ。口元が少し動いたようだったが、その視線が横に逸れる。木ノ崎の存在にも気づいたようだった。
青柳に視線を戻したその顔は、何やら不穏な笑い顔になっていた。

「え？何？お邪魔、俺？」
声が届く距離になって、遠野が笑い顔のままそんな事を言ったため、木ノ崎が「やだー！」と言って笑う。

すぐにでも帰りたくなった青柳だったが、とりあえず自分の学生証を遠野に渡し、
「じゃあ、今日のバイトん時返して」と言いながら、そのまま遠野が来た道を歩いて行こうとした。

と、その肩を遠野が捕まえる。
「え？ちょっと待てって朋希、飯食った？」
「あ？」
帰らせろ、という顔をしたつもりだったが。遠野にはあまり効果がなかった。

「食ってないだろ？俺もまだだから、っつーかＣ大の生協どんなのある？」
「わー私も私も！お昼一緒いい？」
「どうぞどうぞ」

自分の手を引っぱりながら、笑顔で木ノ崎に受け答えしている遠野を見て、
青柳は初対面だろお前ら、と言いかけた口を閉じた。

「青柳君とバイト同じなの？仲良いねー？」
「うんそうそう、君は？朋希と仲良いの？」
「やーだー！一緒の講義受けてるんだよねえ、青柳君ー？」

はあ、と適当に応えると「名前教えて」と、木ノ崎に言う遠野の声。

大学の正門前にある、池や桜の木がある場所を通り抜けると、生協の食堂がある。

花の散った桜の木が好きだった。
葉の増える様子が良くわかるからだ。色の変化が目立つ気がする。
桃色の花の印象が強いせいだろうか。

まだ横で２人が何かを話しているようだったが、青柳にはもう聞こえていなかった。

自分の背中が、遠野の肩で軽く押されている感覚が少し気になったが。

池の横を通る。その場所に一番大きな桜の木があった。
見上げると、空がまだ見える程度に茂った葉が光を通す。

虫がいそうだな、と思った。




AQUA／
＞ 「感謝」？

ROSE／
＞ 僕にはきっと出来なかったから

彼女を愛していたから、なんて理由だろうか。
それなら俺に対して「感謝」と言うのはおかしいが。
聞き方を考えていたら、先にローズが文字を返して来た。

ROSE／
＞ 愛してたわけじゃなかったからね

思わず、読み返す。
一度、天井を見てから、画面に目を戻した。
唐突に理解できる感情ではなかったが。
この話の流れだと、

AQUA／
＞ 愛していたら、殺せたのか？

そういう意味に取れてしまう。

ROSE／
＞ そういうこと。

新しい感情だった。俺が触れたことのない。

AQUA／
＞ それは、初めて聞いた。

ROSE／
＞ 君は、違う？

俺、は。

ROSE／
＞ 君が、初めて殺した人はどんな人だった？

先程まで展開されていた、１年前の黒い映像がたち消えて、
別の色を思い出した。赤い、温度を感じる光と色。

AQUA／
＞ 恋人だった。

他人から見たら、自分と彼女はそんな言葉に置き換えられる関係だったように思う。
当人たちには何の意味も成さない。
精神だけで、成立するものがあると、信じている人間にだけ有効な言葉。

ROSE／
＞ どうして殺した？

AQUA／
＞ 「殺して」と言われた。

ROSE／
＞ 殺したいと思ってた？

AQUA／
＞ 思ってない。

ROSE／
＞ 彼女は思ったかもしれない。

一瞬、考えてしまった。
意味はすぐにわかったが、あまり歓迎できる考え方ではない。

AQUA／
＞ 俺が殺したいと思ってた、と？

ROSE／
＞ それよりも、殺されたくなったんだろうね。

ざわり、と。肌が泡立つ感触がした。

AQUA／
＞ 俺に？

ROSE／
＞ 僕はね、アクア。ドールの気持ちがわかるんだ。

話が飛んだ。ローズの中では繋がっているはずなのだろうが。
しばらく考える。

他人を、同じ生き物だと、自覚できる瞬間があるとしたら。
息の止まった体を見た時だ。

頭があり、胴体があり、そこから伸びる手足がある。
細かいパーツが鮮明になる瞬間だった。

温度があって動いている時は、全くの別の生き物に見える。

AQUA／
＞ どういうことだ？

自分が生きているなんて。どこかで感じた事があっただろうか。
死んでいるようなものなのに。

どうしてまだ、動いているのだろう。

ROSE／
＞ 彼女は、正常なんだ。正常で、正直なんだ

綺麗な人形が欲しいと言って、人を攫って殺す事が？

それが正常だと言うのなら、
そう評価している人間が異常になる。

AQUA／
＞ お前も、そうなのか

気持ちがわかる、というのならば。

ROSE／
＞ そうだよ

滑らかに、現れた文字。

反射的に、危険だと、感じてしまった。

俺自身がしている事だって、十分異常で危険なのに。
変わりはないのに。

だけど。俺は。
人形が欲しい、なんて思わないから。

AQUA／
＞ 人形が欲しいと思うのか？

ROSE／
＞ 僕はね、好きな人間ほど、自分のものにしたいと思うから。

瞬間、呼吸が止まった気がした。

一見するとそれは普通の文章だった。だけど。

確かに、そう、その感情は、正常で、正直なものだ。

正常と異常の区別だって曖昧なのだろうけれど。

だけど。

ROSE／
＞ 本当はね、予告しないで撃つ方が綺麗な顔をするんだよ

AQUA／
＞ それを、自分のものにしたいと？

ROSE／
＞ 最高だろう？

わからない、と思おうとした。
わかる気がしてしまったからだ。

俺は、だって。

ROSE／
＞ 君はどうしてここにいるの？

お前もそうだろう、と。
そういう事だろうか。

自殺したい人間を、殺してあげる仕事、なんて。

そんな事をしている俺たちの名前が、『ユートピア』だなんて。

本当に、笑えてしまう。

どうして俺は、ここにいるのだろう。

それは、何度も考えた事だった。


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