『雫に浸る夜』



5 風と波


彼女はいないんだね、良かった。

仲良しの友達がいるんだね、少しアナタの目が変わるから。

楽しいの？

でも、そう、沈んだ色はそのままだね。

綺麗な目、沈んだままが一番綺麗。

全てが透過していそう。

世界がアナタにはどんな風に見えている？

大きめな手。その手には、何かがQdまれていたりするの？

ねえ、もしかして、１人じゃ不安かな。

友達がいるって事は、そういう事だよね？

１人が好きでしょう？なのに他人を求めてるの？

でも人といるのは嫌なんだよね。

素敵だね。

素敵で、綺麗。アナタの心が見えたらいいのに。

きっと、すごく、綺麗な黒い、透明で、雫みたいに煌めいて。

大丈夫。

あたしには見えるよ。

大丈夫。

もうすぐ、もうすぐ会えるからね。

待ってて。




殺人事件、となるとさすがに大学内での扱いが大きくなった。今までは、せいぜいが食堂内で噂話と一緒にされていた程度であったが。
学校に向かう電車の中でも話が聞こえてくるようになっていた。とは言っても、部外者が言う言葉は「今C大ってヤバいらしいよ」くらいのものであったが。

青柳朋希は図書館の３階にいた。４人がけの机に、遠野と並んで座っている。向かいの席に人が来ても顔が見えないようにしきりが着いているため、隣の人間との距離がやけに近く感じていた。

「うちの大学でもさ、誘拐事件の話してたよ」
遠野がノートに何かを書き込みながらそう言った。青柳に話しかけたのだろうが、どう応えたものかわからなかった青柳は、数秒間無言になってしまった。
と、肘で腕を押されてしまう。
「あ」
青柳もノートに文字を書いている最中だった。左利きのため、左側にいた遠野に腕を突かれると当然、文字を書こうとした線があらぬ方向へ伸びてしまう。
「何すんだよ」
「聞いてた？」
「聞いてるよ」
「ね、何で殺したのかな」

声音も変えずに、いつもと変わらない口調で遠野が言った。
一瞬、青柳の手が止まる。
「…誘拐した理由もわからないし」
青柳の視界の隅で、遠野の手がシャープペンシルを回していた。
開かれた本はもう、２人の人間に読まれてはいない。

「それはだから…イケメンだから？」
「そんな理由でか？」
「普通のヤツだったら誘拐なんてしないだろー…そもそも、さ」

それもそうだ、と青柳は思う。
普通の口調で話している遠野だが、眉が少し寄せられている。やはり気分の良い話題ではないのだ。それなら話さなくても良いのに、と思う青柳だったが。
殺人、となるとやはり気になってしまうのだろう。
せめて自分が違う大学に通っていたら、と。不謹慎ながら青柳は考えてしまっていた。

「…まあ、でもこれで終わったって事じゃないのかな」
希望も含めた上で、青柳は言った。区切りがついた、ということなのでは、と思ったのだ。
「どゆこと？」と聞いて来た遠野に、「いや、誘拐事件がさ、終わりってこと」と青柳は返す。

「最初の誘拐が２年前だろ？それから４人の被害者がいたわけで、その誰も今まで殺してなかったのに今回は…」
「あー…全員だったしな、見つかった死体って」
「そう、だから、終わりなのかなって思ったんだけど」

根拠は全くない意見だったが、何となく思っていた事を青柳は言ってみた。
昨日のバイト中に見せられた、記事にその事が書かれていたのだ。川辺で見つかった死体は４つ。殺害された時間も、ほぼ全員同じだろう、という見解があったらしい。
そんなこと、どうやって調べるのか、青柳は知らなかったが。
知りたくもない、と思ってしまった。出来れば、知らないままで良い。

「じゃあさ、何のためにやってたんだろ」
遠野が呟く。誘拐という行為をどうしてしていたのか、ということだろう。それは青柳も考えたことだった。

「まあでも、理由を言われても多分理解できないんだろうけど」
気分が落ち着かないのだろうか、首を回して窓の外を見て、遠野が重ねて言った。

理由のわからないものは、気持ちが悪い。
ワイドショーなどの存在する要因が、そこにあるのだと青柳は思う。
危機を回避したい、という欲求の現れなのだろう。
理由付けをし、理解したと思い込み、その前兆を感じ取れるようになりたい、と願うのだ。

それは、しかし、
ただの幻想なのに。

「終わりだと良いな」
青柳の言えたことは、これだけだった。

窓の向こうの枝が揺れた。
黄緑色の葉が、太陽の光を透かして動く。
風はいつも不躾だ。
動かないものが動き出す。

「…まあね」
呟いて、窓の外を見たままの遠野の表情は見えなかった。

ただ、遠野の髪がいつもよりやけに、淡い小麦色に見えたのだ。




ROSE／
＞ 君は、生きる事にも、死ぬ事にも興味がないだろう？

AQUA／
＞ 考えたことがない

ROSE／
＞ 見ればわかるよ。自分じゃわからない？

AQUA／
＞ 考えたことがないんだ。だから知らない

ROSE／
＞ アクア、僕が名付けたんだ、覚えてる？

AQUA／
＞ そうだったか？




大学の図書館で借りられる本は、３冊までと決まっている。貸し出しの手続きには学生証が必要なため、遠野が本を借りるには青柳の学生証を貸りなければいけなかった。青柳の手には１冊、本が握られていたのであるが。
「ごめん、やっぱ３冊借りたいんだけど」
頼む、と青柳に言うと、眉を軽くひそめただけで学生証を貸してくれた。そして手に持っていた本を返しに行ってしまう。我ながら図々しい、と思ってしまった遠野だが、明日には本を返そう、と心に決めてこの場は甘える事にした。

基本的には、青柳朋希は優しい人間なのだ、と思う。もちろん本のことだけではなくて、きっと、恐らく全体的に、だ。
しかしバイト先のホームセンタで初めて会った時は、何て無愛想なヤツだと思ってしまっていた遠野である。

遠野よりも３ヶ月遅れて、青柳はバイトを始めたのであるが。月に１回程度の割合で行われているバイト同士での飲み会に誘った時のことだ。
「青柳君は初めてだから絶対参加ね」と、誰かが言った声に「腹が痛いので帰ります」と、真剣な顔で返したのだ。
それまで普通に仕事をしていた後での台詞だった。その場にいる全員が嘘だと思っただろう。一瞬静まり返ったその場から、青柳は平然と立ち去ったのだ。

その時の空気を思い出すといつも笑えてしまう遠野である。

何を考えているんだ、と。遠野は次の日のバイト中に、この時初めて青柳に話しかけたのだ。すると青柳は「何も」と言う。
「答える気ないんだ？」と、からかうつもりで言ってみた。
「答えたよ」
「答えてないよ」
「何を考えてるんだ、って言っただろう？」
「飲み会に来ないのはどうして、って意味だよ」
「じゃあ始めからそう言え」

あれ、と思った。

「えーっと、…どうして？」
「行きたくないから」
「だからそれは何で？」
「何で行きたいんだ？」

そこで遠野は詰まってしまった。何で、と言われると。何と答えたものかわからなかったのだ。
「それと同じだよ」と言って、仕事に戻った青柳の背中を、遠野は数秒間見つめてしまっていた。

笑えてしまう。
今思い出しても、あの会話でなぜ自分が、青柳に興味を持ったのか全くわからないのだ。自分にない発想がひっかかった。言葉に還元するとそれしか出てこないのだが。それだけではないはず。しかしそこまでしかわからない。
この感覚が、面白かったのだろう。今では遠野はそう解釈している。今でもそう感じてしまうのだから、この友人は一緒にいて飽きないのだ。

「何笑ってるんだ？」

振り向いた友人の眉間に微かな皺。老けたなあ、と一瞬思ったが口に出さず。恐らく自分もそうだからだ。せいぜい１年くらいだろうか、それしか経っていないのに。こんなに変わるものだろうか。

時間の流れが、少し怖い。遠野は最近それをよく考える。

「明日、返しに来るよ」手にした本をめくりながら、必要そうなページを見繕って、言った。
「明後日にしてくれ。明日は朝しか時間がない」
「その後なんかあるの？」
「４時間続きで実験がある」
「あらら」

笑いながら、「昼飯は？」と聞いてみると、「ん、食べるか」と言って歩き出した、友人の背中に着いて行く。
大学の中を慣れたように歩いて行く姿になんとなく、遠野は違和感を抱いたが。

自分の知らない場所を、知っている人間が歩く姿に、違和感を覚えるのだとしたら。

遠野は軽く笑って、その考えを頭から追い払う。自分の悪い癖だ。考えること自体を放棄してしまう。
答えが、わかってしまうからだ。




AQUA／
＞ 殺したいなら、殺せばよかった

ROSE／
＞ 今じゃない。

AQUA／
＞ いつの話だ？

ROSE／
＞ 君が、生きたいと望んだ時に




物体が青く光る闇の中、
冷たさを失っていた金属の先が、自分の首から離れていった。

俺が手にしていた重い塊も、もう何も捉えてはいない。
空気の流れる音がして、少年の、ローズの手が、何かを後ろ手に仕舞う動作をするのが見えた。
その時初めて、ローズの服装に気がついた。
ジーンズのようなものを履いているようだったが、その上は、タンクトップの形をした薄い生地だ。加えて、倒れている女の、下着姿。

そこで、ローズの目を見てしまったのだ。

「何をしていた？」

俺と目が合って、そこでローズは目を細めて微笑んだ。

「僕らのやってる事は、殺人だよ」

綺麗な顔だ。そう思った。

「行こうか？」

首を軽く傾げて、ローズは身支度を始める。その様子をただ、眺めていた。

窓の外は、変わらない闇と細かい光。

たくさんの色が、あるように見えて、そのどれもが。同じに見えた。

手を引かれる。

ドアの開かれる音がして、薄く足下に差し込んだ光が、床に倒れたままの人間の腕を映し出した。

引かれる力が増して、思わず顔を後ろに向ける。

ローズの髪の色が、はっきりと見える。そこで暗い部屋の色は見えなくなった。

そこからどうやって帰ったのかは、何故か覚えていない。

ただ、

一瞬映った、あの部屋の、床に広がったシミが。

少しだけ不愉快で、情けなくて、

倒れた腕と、ローズの肌の色が、やけに白くて。

それだけが、鬱陶しいほどに鮮明だった。

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