『雫に浸る夜』



6 香


ROSE／
＞ 話そうか、アクア

AQUA／
＞ 何を？

ROSE／
＞ ドールの処理の仕方。




青柳にしては珍しく、バイトのない休日だった。いつもなら８時には起きて９時には店にいるのだったが。
明るくなった窓から入る風を感じて、薄らと目を開けては閉じて、を繰り返している。
気持ちが良い、と感じていた。

そのままもう一度眠れそうだな、と考えていた青柳の耳元で、携帯電話が着信音を鳴らしだす。
心地好いものになるはずだった時間を邪魔され、少し不機嫌になった青柳は、携帯電話を緩慢に取り上げた。
液晶画面にはバイト先の店の名前。

とっさに、休む日を間違えたか、と考えつつも「もしもし？」と言ってみる。言いながら、今日はやはりバイトを入れてない日だと思い出していた。
人数が足りていないのだろうか。

『青柳君？』店長の声だ。
「はい？」
『悪いね、寝てた？あのさ、遠野君、知らないかな？あ、今日あの子、朝シフト入ってるのにまだ来てなくてね』

遠野？

さっきまで眠っていたせいだろうか。青柳は、自分の頭の回転が非常に遅いと感じていた。
昨日自分は遠野に会っただろうか。しかし、会っていたとしてもそれは今聞かれていることとは無関係だと思い直す。やはりまだ頭が起きてない。

「えっと、すみません、多分何も聞いてないんで…自分替わりに入りましょうか？」
言いながら、しまった、と思ってしまった青柳だ。
『あ、ホント？助かるよーありがとー』
すぐに返されたその声に、それが本題だったのだろうか、と考えてしまう。

電話を切った後、ため息をつきながらも、時計を確認する。９時１０分。店が開くのは１０時だ。
もしかしたら遠野は寝過ごしているのかもしれない。そう思い、青柳は遠野の部屋に行ってみることにした。店までは自転車で５分もあれば着く。

何の嫌がらせなのか、遠野の部屋はすぐ隣だった。バイトを始めて少しして、遠野と話すようになって、またしばらく経ってから発覚したことで、お互い顔を見合わせて大笑いしたのだ。
全く知らない人間と、友人とでは、隣人としてどちらが気まずいだろう。正直、未だにその答えが出せない青柳だ。

遠野の部屋の前に立つ。
とりあえず、インターホンを鳴らしてみた。返事はない。
ドアノブを一応回してみたが、開いてしまったら正直困る。期待通り、回らないことを確認してから、青柳は携帯電話を取り出した。
無理矢理呼び出してみる気になったのだ。

部屋の中にいるにしても、外に出ているとしても、携帯電話は持っているだろう。どちらにしても遊んでいるかもしれない友人のために、自分がバイトに入る道理はない。

青柳は携帯電話を耳にあて、しばらく呼び出し音を聞いていた。
空を見上げると、薄い雲がわたがしのようにちぎれて青い空に広がっているのが見えた。
風は軽く葉を揺らす程度。湿度も丁度良い。

半袖のTシャツに、ハーフパンツという姿のままの青柳だったが、
それでも肌寒くは感じない陽気だった。これから雨の降る季節が来る。その後は、この姿でも暑く感じるほどの気温になるはずだ。

続いていた呼び出し音が、ふいに止んだ。
あれ、と思ったところで聞こえて来た声は、ノイズで作られたような女の声だった。
『留守番電話サービスに接続します…』

げ、と思い電話を切る。メッセージを残すほどの用件ではないのだ。
電話に出ない、という状況を一瞬青柳は考えた。どういうことだろう。
単純に、携帯電話の近くにいないだけかもしれなかった。また時計を見る。９時２０分を過ぎていた。
そろそろ準備をした方がいいかもしれない。

青柳は部屋に戻り、服を着替える。歯磨きをしながら顔と髪を適当に整えてから、いつも使っているショルダーバッグを手に取った。

よし、と思い、自転車置き場に行く。
そこでふと目についたのは、えんじ色をした遠野の自転車だった。

あれ。

その自転車の近くに寄って、青柳は名前があるか確認してみた。ない。
しかし、遠野の性格を考えると、名前を書いていない方が自然とも言える。

別の人間の自転車だとわかれば、遠野が部屋にいないと確信できるのに。

青柳はしばらくその自転車を眺めてみたが、これが遠野の自転車だという確かな証拠はないようだった。

アパートの前の道路を、大型のトラックが通過した。
僅かに空気が軋む感覚。

青柳は、とにかくバイトに行く事にした。
夜になれば、さすがに連絡も着くだろう、と。
この時は考えてしまっていたのだ。




女の香水の匂いがした。

ふわり、と。
髪が頬を掠めていく。

覚えのない匂い。自分の知っている人間じゃない。

目を開けてみた。暗い部屋だ。それとも俺の目が見えないのか。

「起きた？」

声が聞こえたと同時に、視界が明るくなった。
遠野は、体を起こそうとして、自分がいつの間にか寝ていたことに気づく。

光のせいで目が痛みを訴えたが、なんとかその声の元を辿ろうとしてみた。

「遠野君？」

目の前には冷たそうな灰色の壁。横たわっていた場所を確認すると、スチールパイプで単純に組まれたベッドだった。マットレスが新しい。

自分の名前を呼んだ、その声を追って振り返る。

真っ黒な色のワンピース。
真っ黒のブーツと、頭についた真っ黒な飾り。

化粧が濃い。

遠野は顔をしかめたまま、「君は？」と黒い服の女に問いかけた。
不機嫌を表したつもりだったが。

「良かった、死んでなくて」

女の笑顔に、鳥肌が立った。
そして唐突に、思い出す。

昨日の夜だ。
遠野はバイトから帰ってきたところだった。
この日も、青柳朋希と一緒にいた。

課題の話をしていたら、同じ内容の講義を受けたことがある、と青柳が言っていたのだ。
そこで遠野は、ノートを借してもらおうと思い、青柳の部屋へ行った。

ノートを借り、それを見つつテレビを観て、夕飯を食べて、ゲームをして…。

ここまでは、いつも通り。

その後だ。

遠野は、自分の部屋へ戻ろうとしたところだった。

このアパートにしては珍しく、通路に人がいた事には気づいていたのだ。

その人間が、背後で立ち止まった。
え？と思って振り返ろうとした瞬間だった。

首筋に、衝撃が走ったのだ。

その後は、何も覚えていない。

気づいたら、今のこの状況だったというわけだ。

思い出しながら、遠野は自分の今の状況を理解する。
首筋の痛みも、今思い出した。

周りに迫る灰色の壁が、やけに重く感じる。

遠野は、女の目の色を伺いながら、自分の首を右手で触ってみた。
傷はついてないようだが。
「大丈夫だよ」と、そこで女が言う。

「ホントはね、クスリを使おうかと思ったんだけど」
楽しそうに、笑いながら話している。

「それだと私、殺しちゃうかもしれないから」

そこで本当におかしそうに笑って、「ね？」と、遠野の目を見つめてきた。

おかしい。

自分の体に力が入っているのがわかった。汗が出ていることも。
遠野はそれでも、平静に見せるように努めていた。
「君は…誰？」

少しでも取り乱したら、何かが起こる予感がする。
それが何かは、わからないが。

「あ、そっか」と、赤い唇が言葉を発する。
目のふちが判別できないほど、黒く大きくなっているマツゲが動いて。
瞬きをしたようだ。

化粧などしていなければ、魅力的な顔だろうに。

「私の名前はね、ドールって言うの」

本名じゃない。そう咄嗟に思ったが、声にはできなかった。

「死にたい人をね、殺してあげる仕事をしてるの」

歌いだしそうな表情で、首を傾げ、彼女はそう言った。




「不便でしょう？自分で自分を殺せないなんて」

「スイッチを切るだけなのにね」

笑顔のまま、彼女、ドールはそう続けていた。

遠野は、視線を彼女以外の場所に移してみる。
自分の寝ていたベッドから、一番遠い位置にドアがあった。

つまり、遠野と向かい合う、彼女のちょうど後ろ。

逃げ場所を探しているのだろうか。

「怖い？」と、ドールの声。

遠野は返事を返さなかった。あるいは、返せないのか。

彼女は微笑んだまま、背後を振り返って、
遠野の見ていたドアのノブに手をかけた。

扉が開けられる。

そこに見えたものは、廊下ではなく、部屋だった。

そして、たくさんの、人の顔。

遠野は自分が叫んだかと思ったが、実際には僅かに体が震えただけだった。

良く見ると、それは頭だけのマネキン人形だ。頭髪もない。

その名称はわからない。しかし、並んでいるその光景は異様だった。

明けられたドアからは一部しか見えないが、部屋の中いっぱいに棚が並んでいるようだった。

そこに、その頭だけのマネキンがいっぱいに並んでいる。

それは全て、男の顔のように見えた。

綺麗な、少年の、顔。
首の後ろと、腕の辺りにしびれが走る。

汗が冷たく感じられるほど、肌の表面が一瞬にして冷えた気がした。

鼓動は、やけに大きい。

唐突に浮かんだ自分の連想に、遠野は衝撃を受けた。

先日読んだ新聞記事だ。

綺麗な顔の、被害者。

まさか。

「これね、作るの大変だったんだ」

頭だけのマネキンを１つ、手に取って、眺めながらドールは言う。
「どうしてもね、私１人じゃ表情がうまく出せないから…」

ね？、と。こちらに笑いかけたその顔は、
けして恐ろしいものには見えなかったけれど。

「本当はね、もっとカッコ良かったんだよ、この子も…見た事ある？」

あるわけない。

「…誰なの？」

言ってしまってから、後悔した。聞きたくなんてないのに。

「あ、やだ、そうだよね、まだ言ってなかったか」

笑う、女の顔が、歪んでいるように見える。

「Ｃ大の子なんだよ、この子。知ってる？」

手にしたマネキンの鼻筋を、人差し指でなぞりながら。
自分と目があったままの女。

こいつが。

「でも死んじゃったから…川に流してあげたんだけど」

手の感覚はもうなくなっていて、頭の奥が酷く軋んだ。
目の前に並ぶマネキンの顔が、こちらを見て笑っているようで。

遠野の頭の中の映像は、あの新聞記事の写真を鮮明に映したままで止まっていた。

こいつがやったのか。

遠野は、マネキンの顔をもう見る事ができなかった。
新聞や、週刊誌に載っていた顔かもしれない。しかし確かめることは出来そうになかった。

「型をね、採らせてもらったんだ…殺したかったわけじゃないんだけど…やっぱりね…」

遠野は女の声を遮りたい衝動に駆られたが、動くことが出来ない。
型を採る、とはどういう事か。殺すつもりがないのなら、何故彼らが死んだのか。
頭の中を過った疑問に、彼女が答えを言うことが恐ろしかった。

また、遠野とドールの、目が合った。

「遠野君も、綺麗な顔だね」

遠野は僅かに目を見開いた。

「でも大丈夫」

女は笑う。

「青柳君と一緒に作ってあげるから、安心して」

とても、楽しそうに目を細めて。

「私はね、青柳君に会いたかったんだよ」

そう、言った。
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