『雫に浸る夜』



7 瞳の色


AQUA／
＞ ドールが遠野浩一と接触

Utopia／
＞ 準備は間に合ったのか

AQUA／
＞ 射殺は可能ですか？

Utopia／
＞ 事故に出来るなら




バイトを終えて、アパートに帰って来てからはそれこそ何度も。
青柳朋希は遠野浩一に電話をかけていた。

考えてみたら、おかしいのだ。
つい先日、課題の話をしていた。確か、明日提出だったはずのレポートだ。
Ｃ大の図書館に行ったのも、来週提出の課題について調べるためだったはず。

いくら何でも、旅行に行く、などといった理由でいなくなったわけがない。
バイトを無断で休む、なんてことも、遠野は今までにしたことがなかった。

どうしようか。

帰り際に店のシフト表を見たら、遠野の名前が明日もあった。

青柳は、気が進まないながらも、腰を上げて部屋の外に出た。
アパートのすぐ前の道路は細い道ではあるが、民家が立ち並んでいて、割と明るい。

ぼんやりと、光る窓。

陰る月。

何とはなしに、自転車置き場を確認してみる。
今日の朝に、遠野のものだと思った自転車はまだそこにあった。

携帯電話を見つめ、遠野の部屋の前に立つ。
インターホンを鳴らしてみたが、やはり返事がない。
手でドアを叩いてから、ドアノブを掴んで回そうとしてみた。
鍵はかかったままだ。

「浩一」と、言いかけて、青柳は口を閉じた。
明るいとはいえ、今は夜だ。

もしかして、もしかしてまた明日の朝になっても、遠野がいないようであれば。
叫んで名前を呼ぶはめになるのか、と思ったが。
それよりもまず、管理人なりに頼んで部屋を開けてみるほうが先かもしれない。

青柳はそこまで考えて、もう一度携帯電話のリダイヤルボタンを押してみた。
すると。

ドアの向こうから、いや、割とドアに近い室内から音楽が聞こえて来たのだ。

驚いて、青柳はドアに耳を近づける。ドアのすぐ傍だ。確かに聞こえてくる。

まさか、と思い、コールを止める。
と、ドアの向こうの音も止んだ。

遠野の携帯電話が部屋の中にある。

そして、遠野本人はいる気配がない。

ざわざわと、体の中で何かが動くような感覚がした。




スチールパイプの軋む音。

遠野浩一はぼんやりと、ベッドの上で体を捻る。

部屋は明るいままだ。

１つしかないドアも閉まったままで。

その向こうには、首だけのマネキンがたくさんあって。

頭の奥が痛みを訴えた。

あの、ドールと名乗った黒い服の女は話をした後、そのマネキンの並ぶ部屋に入って行って、
それからしばらく帰ってこなかったのだ。

気が進まないながら覘いてみたその部屋には、隅にもう１つのドアがある。遠野はそのドアに近づいてノブを回してみると、予想通り鍵がかかっていたのだが。

部屋からは出られない。わかった事は、それだけだ。

女が出ていってから気づいたことだが、
ジーンズのポケットに入っていたはずの携帯電話がなくなっているのだ。

誘拐事件について書かれた新聞記事には、携帯電話にメールが届く、と書かれていたが。
そうか。

被害者から奪った携帯電話を使っていたのだ。

メールを打って、その携帯電話自体のアドレス宛に送信して…簡単じゃないか。

遠野はため息をついて、体を起こして、ベッドに腰掛ける体制になる。

そして、そう。
「青柳に会いたい」と、彼女は言っていなかったか。

遠野の頭痛の原因はそこにもあった。

その意味するところは、
今の自分の置かれている現状と、
あの部屋に並ぶ首だけのマネキンを見れば、ほぼ確信できる。

部屋のドアが開いた。

「お腹すいてる？」

装飾の凝った銀色のトレイにパンを載せて、
ドールが部屋に入って来た。

今、彼女を無理矢理押しのけたら逃げ出せるだろうか。

人を、４人も殺した、そんな人間を。

「怖い？」

自分は、もう、諦めていないだろうか。
そんな気分になっていた。

「怖いよ」と、声が出る。

必要以上に黒く縁取られた、彼女の瞳が大きく開かれた。

首を傾げて、トレイをベッドの横の小さなテーブルに置くと「どうして？」と、彼女は言う。

「俺のことも、殺すんだろう？」

せめて。

青柳の顔が、あの部屋に並ぶような事態は避けられないだろうか。

自分がそんな事を考えていたことに驚いた遠野だったが、
一度口から出た言葉は勢いを持って。
「だったら、もう、すぐやってくれ」

真っすぐに見つめてくる、黒い瞳から、目を逸らさないようにすることで精一杯だった。

体は冷えきっているような、熱が全て頭の奥に集まってしまったような、
そんな、自分の感覚が遅れて届く。

水が欲しい、と、そう思った。

「遠野君、青柳君に会いたくない？」

「…別に」

目線が泳いでしまう。
死にたくない、と一瞬思ってしまったからだ。

青柳に会ったところで、避けられる事ではないのだが。

「ね？一緒にいたいでしょ？」

そんなことはない、と言おうとした口が、
喉の乾きに耐えかねて声を失う。

ドールは、何やら呟きながら、顎を人差し指で抑えて首を左右に傾げている。
目線はどうやら天井に向けられているようだ。

遠野は、ドールの手元や表情を見て、彼女がもう自分の携帯電話を持っていない事を確信した。
恐らくは、もう遠野の自宅かどこかに、携帯電話を置いて来た後なのだろう。先程部屋から出て行った、その時か、それとも、遠野自身が気を失っていた、その時か。時間ならいくらでもあったはずだ。

時間のわからない状況だからかもしれないが、もう２、３日が経過しているような心地だった。

遠野は再び、ドールを見る。灰色の壁を見るよりは、多少マシだ。

白い肌。

細い、指。

小さな身体。

力では、勝てそうな気がしてしまうのだが。

「…どうして、朋希…青柳なの？」

遠野の声に、ドールは一瞬、目を瞬かせ、そしてすぐにその目を細めて笑顔になった。
「『朋希』ってもう一回言って？」
「ー何？」
「『朋希』…イイ名前」
「…そう」

どうしてこんな女が恐ろしいのか。

遠野は考えた。

何か。

方法は、ないのだろうか。

頭に思い浮かんだのは、友人の顔だった。

青柳の顔が、あの部屋のマネキンと一緒に並ぶ。そんな光景は。

見たくないのに。




綺麗な顔だね。

彼の目の色とはまた違う、薄い色。

大きな瞳。

良く動く、綺麗な唇と、細長い指がとても素敵。

ね。

青柳君。

どうしてこの子と一緒にいたの？

どうして、

私じゃ、ないのかな。




遠野の部屋の前で、青柳朋希は悩んでいた。
アパートの管理人を何とか説得して、遠野の部屋を開けてもらおうと思ったのだ。

しかし、こんな時に限って。
いや、そもそも、管理人になんていつ会ったかも実は思い出せない青柳だったのだが、
管理人室、と聞いていた部屋に行ったところ、誰も出てこなかったのだ。

旅行にでも行っているのだろうか。
そういえば、アパートに入る時に、子供を連れた年配の女性を見た記憶がある気がする。

青柳はとりあえず管理人のことは諦め、遠野がアパートの鍵をどこかに置いていないか探すことにした。青柳自身、友人（主に遠野だが）が自分の部屋に入る機会が多いため、アパートの鍵をドアの内側にあるポストの中に入れてもらうようにしているのだ。わざわざポストの中に、鍵用の袋まで用意して、である。差し込み口からは案外深さがあるため、そのままでは外側から取り出せないからだ。

念のため、と青柳は思い、遠野の部屋のドアについているポストの中に手を突っ込んでみた。
と、ドアとは違う感触が手に触れる。
指で確認してみると、ガムテープで何かが内側に貼付けられていた。

あ、と思う。

ガムテープを剥がしながら、貼付けられている物体を手で探る。
携帯電話だ。

手にした携帯電話を慎重にポストから取り出して、月の明かりに照らしてみる。
遠野の、携帯電話だった。

自分の心臓の音が、大きくなっている。

携帯電話を開いてみると、予想通り、未読のメールがある。

読みたくない、と。咄嗟に思ってしまった。

思いながら、青柳はメールを開く。
そして、予想外の文章に、驚いた。

『青柳君？待ってるよ』




「…君、は、どうしてこんな事してるの？」
「『こんな事』？」

上半身を不自然に横に傾けて、首を軽く傾げて、ドールは遠野の目を真っすぐに見てきた。
鏡の前で、練習をしたかのような動きをする。

人を殺した人間に、その理由を聞いたところで、自分には理解できないのだろう。それは遠野だってわかっていた。
それに、説得や、説教などといった類の話が、通じるとも思えなかった。

しかし、青柳のことがある。
友人だけは助けたい、などと言えば格好つくのだろうが。そうではなかった。
遠野はただ、目の前の女が気持ち悪かったのだ。

自分の置かれている状況も。

女が発した言葉も。

開かれたドアから見える、たくさんの顔も。

「死にたいって人を殺してあげてる事？」

ドールと名乗ったこの女が、始めに発した言葉だ。
何度聞いたところで、理解できる気がしない。

「自殺したい人とかなら…止めるのが、普通だろ」
「どうして？」
目を大きく見開いて、心底不思議だ、とでも言いたげな顔で言い返された。
遠野はますますわからなくなった。
『どうして』？

「眠ることと同じ…目を閉じたいだけなんだから…止めちゃ駄目でしょ？」
「わからないよ」
「青柳君を見てても、わからない？」

遠野は、息を飲む。

青柳朋希の、目の色が思い浮かんだ。


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