『雫に浸る夜』



9 クリア


大好きな色をした空を背景にして、アナタは道を歩いてた。

黒い髪と、黒い目が、夜のように光ってて。

こんなところに居てはダメ。

ダメだよ。

こんなに重たい地面に縛られて。

その足を動かしても飛べなくて。

固まってしまう。

止まってしまう。

そのままじゃ。




海に面している古びた高い建物が目に入った。月明りが弱いため、それがどんな建物なのかは判別できない。その下、数十メートルはあるのだろうか、岩壁が剥き出しで暗い海面まで続いている。

その光景を眺めながら海岸沿いを青柳朋希は歩いていた。
工場なのか、倉庫なのか、何と言ったらいいのかわからない、無機質な建物が続いている道だ。その向かい、青柳から見て左手には地面と同じ色の壁が続いていて、そのまた向こうには人のいない砂浜と黒い海面が静かに揺らぐ光景が広がっている。

春の夜風は、けして冷たいわけではなかったが、海辺の散歩には向いていなかった。本当なら少し寒いほどなのだろう。青柳はその温度を感じ取ろうとしたが、強ばった体にはその余裕がないみたいだった。
力が、抜けないまま、歩き続ける。

“DOLL”から指定された場所は、あの高い建物に一番近い倉庫の前だった。

青柳は一度、海を眺める風にして立ち止まり、息を整える。動くのだろうか、と心配になるほど固まっていた首や肩を回してみたが、いつも通りに動いてくれた。それを少し不思議に思う。

死ぬような局面に立ったとしても、体はいつも通りに動くのだろうか。

そんな事を考えながら、青柳は横目で遠くに見えるライトバンを探した。

海に面した通りが長く続くその先にはT字路があり、広い道に出ることができる。その道は、海を望む青柳の視界の前方に伸びる方向に、やはり海に面した道が続いていた。T字路から少し離れた海沿いの大通りに、釣り道具を載せたライトバンが停まっていることが確認できる。その近く、海岸に降りる事ができるコンクリートの階段があり、その下には釣り人の姿が数人。その中の何人が、こちらを見ているのだろうか。青柳にはわからない。きっと他にも、こちらからは見えない位置に監視の目があるのだろうが。

青柳は、右方向に見える、黒く長い建物を確認した。あと100メートル程で辿り着く。

そこに何が待っているのだろう。何度も考えたが、想像できない。

あと50メートル。もう入り口らしき扉が右手に見える。

中には入れるのだろうか。入っても良いものだろうか。そもそも、何故こんな場所なのか。

あと10メートル。歩調を下げようとしたが、歩き続けている足は思うように命令を聞いてはくれなかった。

そのまま扉の前まで来る。

建物まであと１歩。ここでようやく青柳の足が止まった。

波の音が強く耳に届く。

心なしか息が上がっていた。汗はかいていない。
心音が強い。
疲れではなく、緊張だろうか。

どうしよう？

唾を飲み込んだところで、金属音が微かに聞こえて来る。驚いて、扉を改めて確認すると、円い形のノブが目線よりも少し下に確認できた。
扉は、海に面しているせいだろうか、必要以上に錆び付いている。
ドアノブも、動くのかどうか不安になるほど古く見えた。

それが、青柳の目の前でゆっくりと回転している。

誰か出て来る。そう思った瞬間、扉が開いた。そしてすぐに中から手袋をした手が伸びて、驚いていた青柳の手首を掴み、建物の中へと引き入れる。

暗い建物の中に入った。そう青柳が認識すると同時に、扉が閉じる音がして、遠くから車のエンジンの音が聞こえてくる。

「警察？」と、男の声がどこからか響いた。

手首を掴まれ、促されるままに足早に歩いている青柳は、声を出していいのかどうか迷ったまま目線だけを泳がせる。
建物の中は温度をなくしたかのような静けさだった。何が置いてあるのかも判別できない程暗い。ましてや、手首を掴んでいるのが人間なのかどうかもわからなかった。

冷たい、皮の手袋の感触だけが、じわじわと手首から伝わって来る。

足はどこへ向かって歩いているのかわからない。

すると、車の扉を開ける音がすぐ近くで響き、青柳は後ろから背中を押されて倒れ込んだ。手をつくと車のシートらしき感触があり、顔を上げると速度計等の光が確認できる。エンジンの音が響いて走り出したと思ったところで、視界が奪われた。

目を覆うようにして、頭に何かが巻き付けられる。

急ブレーキの音が響き、青柳は車体に肩を打ち付けた。思わず声が出そうになったが、意識して息を止める。どうして自分は声を出さないのか。どうして抵抗しないのか。

考えながら、しかしやはり何もする気になれないまま、走り続ける車のエンジン音に耳をすませた。音だけではどこをどう、走っているのか全くわからないが。
急ブレーキが何度も響く。
音だけを聞くと、初めは籠ったように響いていたエンジン音が、いつの間にかクリアになったようだった。恐らく車に乗せられた時はあの倉庫の中で、そこから外に出たのだろう。それしかわからない。

目隠しをされた中でも青柳は目を開けてみた。光だけは何とか届く。赤と、黄色が右側に映り、後方に去って行くのが見えた。それしか見えない。諦めて、目を閉じた。友人はどうしているのか考えようとして、止めた。

未だに、現実感がない。

何が起こっているのだろう。昨日までは、いや、ついさっきまでは、普通だったように思うのに。

しかし普通とは何だろう。

眠って、起きて、学校へ行って、バイトもして、人と会って、話して、何かを食べて、また眠って…。

何を考えたかったのだろうか、自分は。

混乱しているのだろうか、と。青柳は今更自分の意識を確認する。混乱しているとしたら、考える事自体が無駄なのだろう。混乱と、普通の状態と、違いは何だろうか。
今、自分はどんな状態なのか。

車に乗せられているんだ。目隠しをされて。

多分、人を殺した、友人を攫った人間が、いるところへと向かっているのだ。

映画のようだ。

気づけば、手首はまだ皮の手袋に掴まれたままだった。微かに人の体温がする。

人間だ。
ここにいるのは、人間なのだ。

運転しているのも、人間で。

人を殺すのも、人間だけで。

何故だろう。まだ、自分は考えようとしているけれど。

何を考えているのか、考えたらいいのかわからないなんて。

頭痛も、動機も、収まっている。体温はもうなくなっているような感覚だけがわかる。
手も、足も、動くのだろうか。
確かめられる程の度胸が、今の青柳にはなかった。体は不自然な体勢でシートに座っているようだったが、直す気力もない。

車の運転は、いつの間にか安定している。
目に届く光は、等間隔に去って行くぼやけたオレンジ色だけになっていた。

寒い。

このまま、冷えて固まったまま死んでしまわないだろうか。

そう、青柳が思ったところで、車が停止する。

ぼやけた頭のまま、青柳は皮の手袋に引かれるまま、車から降りた。




ROSE／
＞ 事故に見せればいいんだ。

AQUA／
＞ 警察にわからないように？逃げる人間に対してそれは難しい。

ROSE／
＞ 僕らは死にたい人間を相手にしてるからだよ。被害者が協力してくれるわけだからね。

AQUA／
＞ 誰かを殺人犯にするなら話は早い。

ROSE／
＞ そいつが警察に捕まって終わり？それは別グループがやってるんじゃないかな。

AQUA／
＞ 俺たちは違うのか？

ROSE／
＞ そうだよ。まあ、そろそろ直接会って話そうよ。




聞いた事のないメロディが灰色の壁に反響した。遠野浩一は反射的に肩を震わせてしまう。もうドールの顔を見る事ができなくなっていた遠野であるが、手の動きは見ることができた。

ドールは赤い携帯電話を取り出すと、そのまま遠野から離れて隣の部屋へ行き、何事かを話しながら遠ざかって行く。
やがて扉の閉まる音がして、声も聞こえなくなった。

遠野は息を吸う。自分が呼吸していたかどうか疑わしいほどだったが、止まっていたならば、とっくに死んでいただろう。体中の感覚が鈍って来ている。そんな気がしたが、確かめようもない。

せめて窓くらい欲しかった。

外の景色を見ればきっと、安まるのだろう。青柳が聞いたら「錯覚だ」と言いそうだ。そう思うと、少し気分が落ち着いて来た。灰色の壁。当然だが、カレンダーも、ポスターも張られていない。
スチールパイプのベッドと、その横に置かれた小さなテーブル。足の部分はやはりスチールだろうか、上に乗っている板はガラスのように見える。その上に、パンの載った銀色のトレイ。

食べたら、死ぬかもしれない。

死んだら、もしかしたら、今よりよほど楽だろうか。

パンに手を伸ばす。口の中が乾いていた事を思い出したが、水分を取れそうなものが見える範囲にはなかった。パンを掴んで、眺めてみる。普通のロールパンだ。コンビニで、袋に入って、売っていそうな。

何だ、普通じゃないか。

左手で、小さく千切って口に入れてみた。知ってる味だ。
知ってる食べ物だ。
普通に、自分は物を食べている。
こんな状況でも。

こんな、状況なのに。

遠野はパンを飲み込むと、残りをトレイに戻した。それをもう食べたいとは思わなかった。食べても何も変わらない事がわかったからだ。

トレイの上に２個、パンが載っている。

そのうちの１個は、自分に食べられて欠けている。

銀色のトレイの凝った装飾が鈍く光る。蔦のようなものが、葉をつけて、それが絡まって、取手のような部分に巻き付くように伸びている。
全て銀色だ。
銀色の植物と、銀色のトレイ。
その上に、欠けたパンと、きれいなままのパン。

足が冷たい。

手も、冷えきってしまったようだ。

動かせないのか、動きたくないのか。

そうか、こうやって。

気づいたら、死んでいるものなのかもしれない。

目を閉じかけた遠野の耳に、突然のようにして人の声が聞こえてきた。
いつの間にか戻ってきたドールが部屋の入り口に立っている。

「こっち」

先程まで見せていた顔とは全く違う、優しく笑った顔がそう言って手招きをしていた。
遠野はもう、何も考える気力のないまま、ゆっくりとベッドから立ち上がり、ドールの後に着いて行く。

マネキンの首が並ぶ部屋を通り過ぎ、ドアから出た時も、遠野は逃げようとは思えなかった。

早く眠りたい。

それだけを考えながら、遠野は暗い廊下を歩いていく。

前を行く、ドールの足下だけを見て。




車から降りても目隠しは外してもらえなかった。手首を掴む皮の手袋も相変わらずで。そのまま数歩歩いたところで「階段」と言う声が青柳朋希のすぐ傍から発せられる。

革手袋の人間の声だろうか、それとも他にも誰かがいるのだろうか。

手首が軽く持ち上げられる。
青柳は、何となく、足を高く持ち上げて踏み出してみた。段差のある地面にその足が着く。そのまま数段上がったところで、手首を下ろされたので、足も普通に踏み出してみた。

玄関前にある、階段だったのだろか。

重たい金属音が響く。ドアを開けたのだろう。少し遅れて、また手首を引かれるので着いて行く。ここで手を振りほどくのも、体力的には可能だったが、逃げ切れる気は全くしなかった。暗闇にも少し慣れてしまったが、目は意識的に閉じたままだ。開けても光しか認識できないのなら、この状況を変えることなどできないからだ。

もう一度、今度は周りに反響する金属音が鳴り響く。

建物の中に、鍵のついた扉があるらしい。どんな建物なのか少し気になったが、それがわかったところで何が変わるのか。この問いかけをもう何度しただろう。青柳はため息をつきたくなったが、もう体は固まってしまったかのように動かなかった。ただ足だけが前後する。

乾いた音が響く。反響が先程よりも狭い範囲で鳴り響いた。いつの間にか室内に入ったのだろうか。乾いた音は、照明のスイッチだろう。目を閉じていても届く明るい光に、青柳は少しだけ目を開いてみる気になった。

すると、ここで目隠しが外される。

驚いて、開いた目で辺りを確認した。
急に明るくなった視界に、視力が鈍いスピードで戻って来る。

狭い通路だ。壁は灰色だけで塗りつぶされている。
天井もやけに低い。

青柳はその圧迫感に耐えかねて後ろを振り向こうとしたが、すぐに頭を抑えられてしまう。「下へ行け」と声がした。

下？

前方をよく見ると、少し先に壁が見え、その下に薄く照らされた階段が見えた。地下に部屋があるのだろうか。

手首を掴む手はもうなくなっていたが、もう一度後ろを振り向く気は起きなかった。

ゆっくりと、青柳は歩き出す。誰かが、待っているのだろう。

遠野浩一は、無事だろうか。

階段にはすぐに辿り着く。下を見ると、天井の照明が届かないところまで階段が続いているようだった。その暗闇を見て、一瞬、立ち止まってしまう。
「青柳君」
後ろから名前だけ呼ばれる。
それだけで、脅迫されたような気分になった。
青柳は息を吐いて、足を踏み出した。

スニーカーは音もたてずに静かに段差を下って行く。

重力に吸い込まれるような錯覚があった。

暗い。

どんどん暗くなる。

それでも後ろは振り向けなかった。

何となく、上から見下ろされているような気さえする。

天井からの明かりが途切れる。

体が完全に、闇に隠れた辺りで、階段が終わっていることがかろうじて確認出来た。

徐々に暗闇に慣れたのだろうか、降りたところで、通路がまた真っすぐに前に進んでいることがわかる。ここを進め、と。そういう事だろうか。

青柳は階段が終わったところでしばらく立ち止まったまま通路の先を見つめていた。

しかし声も何も聞こえてこない。

一歩、踏み出してみる。

変化はないようだった。

そのまま青柳は歩いてみることにする。もう自分が、何をしているのかはどうでも良くなっていた。何が待っているのか、何をどうしたら良いのか。

頭の中で、無駄に考える声だけがうるさいのだ。

息を吸って、吐く音も。

頭の声に被さって響く。

耳の内側まで来て反響する。

もう、自分は何も聞く事ができないのではないだろうか。

突き当たりだ。

壁に行き着いた。青柳は驚いて、足を止めて、目の前に現れた壁に触れた。
冷たい。
左右を見ても、通路らしきものはないようだった。念のため手で触れてみるが、全て冷たい。

「浩一？」

闇の中で、数時間ぶりだろうか、声が出た。言う事が見つからなくて、友人の名前を口にする。
もしかしたら近くにいるかもしれない、と。声を出した後で考えた。

まるで頭が回っていない。眠っている時のようだ。

周囲の冷たい壁に、微かに反響した自分の声が消えたところで、小さな金属音が耳に届く。
ここに来るまでに何度も聞いた音だ。扉の鍵を操る音。

顔を上げるまでもなく、暗闇に差し込んだ光が目に入る。

青柳はその光の漏れる先に顔を向けた。
と、体全体に光が当たり、その眩しさに青柳は思わず目を閉じてしまう。

「いらっしゃい」

細い、女の声がした。

目を凝らして、青柳はその声のする方を見る。逆光で顔は良く見えなかったが、小さくて細い、女のシルエットが浮かび上がる。

その女は、真っ赤な色の、ドレスを着ているようだった。

「会いたかったよ…久しぶりだね、青柳君」

表情が見えないままのシルエットが、そんな言葉を発して来た。その後ろに、見慣れた顔が見え、青柳は思わず目を見開く。

「浩一」

呼ぶと、友人がこちらを見た。

赤い服の女越しに。

はっきりと、遠野の顔が、笑っているのが見えたのだ。


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