『雫に浸る夜』



11 ローズ


晴れた夜だ。

青い、湿った空気に沈むような。

透明な闇の中で、光る。

君の瞳を知っている。

その中に映る色を、

手にしたいと思ってしまった。




嬉しそうに微笑んで、正面から目を合わせてくるドールと数秒間向かい合って、青柳朋希は考えていた。
助かる方法について、だ。

しかし、促されるままに座った椅子から立ち上がることすら出来ない自分に、何ができるものか。

そんなもの、あるわけがない。そう、思いながら、頭では勝手に思考が進んでいる。意識がバラバラになってそれぞれが勝手に動いている。青柳にとっては、いつも通りの思考回路だった。

肘掛けから外した両手は、膝の上で軽く握られている。

青柳はその手を動かし、椅子の上に手のひらを押し付けるようにした。

動け、と。言い聞かせる。

先程声を出したことで、少しだけ気分が落ち着いたのか、それとも麻痺してしまったのだろうか。

頭の中の声が、大きくなる。

「それなら、浩一は関係ないはずだ」

声のうちの１つが、口をついて出た。
ドールは、再び目を見開く反応をする。目の大きさと、傾けた首の角度が、用意されていたものであるかのように、ゆっくりと、動いた。

きっと、この女は、同じ顔しかできないに違いない。

「遠野君がいないと、寂しいでしょう？」
「どうして」
「仲良しみたいだから」
「それほどじゃない」
「いいえ、仲良しだよ、わかるもの」

そこで、首を元の位置に戻し、また先程までと同じ長さで口の端を伸ばして、ドールは微笑んだ。
「目の色で、わかるもの」

目の色？

青柳は自分の目の色を思い出そうとしたが、黒以外に何の色があるものかと考える。瞳の色は、濃い部分と薄い部分があるような気がしたが。

「綺麗だよね…青柳君の目」

ドールの、境目のわからない瞳を見つけようとした。

目の焦点が、他人と合った、と。認識できる理由は何故なのか。

わからないけれど。

「一緒に綺麗にしてあげるからね」

ドールはスカートを膨らませて青柳に背を向けると、
後ろに黙って立ったままの遠野浩一へ近づいて行く。

遠野は、やはり動かないままだ。
連れ去られてから、ここで再会するまでの間に、何があったのだろうか。

ドールは遠野の胸元へ、その手に持った銃口を押し当てて、
なおも笑顔のまま。

嬉しそうに顔だけをこちらへ向けた。

「だから安心して…寂しくないよ」

銃を持った手だけをそのままに、再び青柳の方へ体を向ける。
「先が良い？後の方が良い？」

「…死ぬのが？」

「そう」

うっとりとした表情になって、ドールはそのまま青柳を見つめた。

「どうして、俺と、浩一なんだ？」

青柳は答えたくなくて、また頭にあった言葉を口にする。
返されても、きっと何にもならないとわかっている質問なのに。

しかし他人との会話とは、いつもきっとこんなものだ。

「遠野君は、アナタのついで」

ドールは、手にした銃をゆっくりと、遠野のこめかみの辺りに持って行き、軽くその銃口で髪に触れる。

「アナタを先に見つけて…その傍にいつもこのコがいたから」

ドールは数秒間、遠野を見つめていた。

薄茶色の髪が、軽く重厚な金属にからめとられる。

「２人一緒で…とても綺麗だと思ったの」

「綺麗なものか」

「綺麗よ」

遠野に銃を押し当てたまま、ドールは青柳の方へと顔だけを向けて、「知らないの？」と続ける。

「何を？」

もう、やめて欲しい。

「死んだら、綺麗になれるのよ」

やめてくれ。

「ココは重たいでしょう？」

聞きたくない。

「こんな重たい身体で地面にいることない…でも、そう…
　アナタの目も…死んでしまうことが少し残念だけど…」

青柳は溜まらず、ドールから目を逸らし、首を振った。
「どうしたの？」という高い声が、どうしても不愉快な響きに感じられて。

「だから、それなら俺だけ殺せ」

もういい。

それ以上、声を聞いていたくない。

ドールはまた、決められた大きさに目を見開くと、それをまた見た事のある細さにして微笑んだ。
同じ顔で。
「青柳君」

俺を呼ぶ。

「…遠野君が可哀相…？」

ドールが、一度遠野を横目で見て、そしてまたこちらを見て首を軽く傾けると、ひとつ、意識して呼吸をしたようだった。
「じゃあ、答えて」

やけに、真剣な目で。ドールは青柳を見て、

「あなたは、私を愛してくれる？」

その手は変わらず遠野に銃を向けたまま、そう言ったのだ。




公園の一角をぼんやりと照らす街灯に集まっている細かな虫の群れを眺めていた。
炎に群がり、焼け死んでしまう虫がいると聞くが、街灯の熱でも死ねるのだろうか。だとしたら、とうに遺伝子が学習していても良さそうだ。なぜいつまでも、光に群がろうとするのだろうか。

そしてそれは、虫だけの話なのか。

アクアは一度、自分の足下にある影を見る。

そしてもう一度、街灯の光を仰いだ。

そこで予想通り、後ろから声がかかる。
「何を見てるの？」
振り返らないまま答えた。
「虫」
「何の虫だろうね？」
「さあ」

「興味あるの？」
横に立って、同じように街灯を見上げた横顔を一度、見る。

「さあ」
そう言って歩き出したアクアに、ローズは笑いながら着いて行く。「相変わらずだね」と、そう言って。

何のことだ、と。一瞬だけ思ったが、声になる前に言葉が消える。声による伝達はいつだって、労力の割にはその役目を果たしてはくれない。それがとにかく煩わしい。

「アクア」

横に並んで、肩が触れる程に近付いて、また少しだけ離れて歩く。
アクアが視線を感じて横を向いたら、笑っている顔と目が合った。

笑い顔しか、見た事がない気がする。

何故だろう。そう尋ねようかと思い至る頃にはまた、言葉が消えていた。

アクアはまた前を向いて歩き続ける。その横で歩くローズはまだ、笑顔のままで。

「君が笑うなら、どんな時？」




ドールの言ったその言葉を聞いて、青柳朋希は目を見開いた。

正面を向いたまま、周囲を囲む黒服の男たちを視野に捉える。

人数を、確認したのだ。

青柳は自身の位置を意識し、ドールと遠野の立つ位置と、その自分との距離を頭に入れる。

準備されていた台詞を口の中で一度止めて、ジャケットの開き具合を調整した。

正面を見る。

顔を上げた遠野浩一と目が合った。

はっきりと見てとれたその顔は、もう何度も目にした笑顔を浮かべている。

ドールが、その青柳の視線を追って、僅かに眉をひそめた瞬間、

青柳はドールの目を見て、その言い慣れない言葉を口にした。

「愛せるよ」

ドールが、顔をしかめながら目を見開くと同時に、空気が動く。

乾いた音が２回。

聞こえた一瞬後に、鈍い音。

ドールは、青柳朋希の背後にいた男が仰向けに倒れた事と、青柳自身が、自分の方へと銃口を向けている事を同時に認識する。

次の瞬間には、青柳の体はドールの視界の隅へと移動していた。

その、変化した目の色に、ドールの視線は吸い込まれる。

乾いた音は銃声だ。

ドールが反射的に顔を横に向けた時には、自分の手が既に掴まれていて、
見た事のない笑顔を浮かべた、遠野の顔が間近にあった。

また、銃声と、人間の、倒れる音。

「君に彼はあげないよ」

ドールが手にした銃は、押さえつけて来る手によって、自分の頭の横に押し当てられていた。それを認識しながらも、ドールの意識は視界の隅に引っ張られる。

人形のようにして倒れている、血だまりに浸る人間の中で、

１人、生きている。

そこに、いるのは。

夜のような色の目の、青年だ。

「ドール」

静かに呼ばれた、その声を。

聞いた瞬間に、頭の中に何かが弾けた感覚を認識して。

それが、ドールの最期となった。




「ここだね」

ユートピアから聞いていたアパートに辿り着いて、『アラウンド・グリーン』という看板を見ながら固まっているアクアの背中に、ローズはそう声をかけた。

笑いながら、「気に入った？」と言うと「いや…」と、多少なりとも引きつった顔がこちらを向く。
「珍しいね、動揺してる」
「…ああ…」
「で、部屋だけど」

ローズは動かないアクアの腕を取り、強引に階段を登らせた。そして階段から２つ目の部屋の前で立ち止まると、鍵を取り出してアクアに握らせる。「開けて」と言うと、ようやく気づいたように腕を振りほどいたアクアはその鍵を持ってドアを開けた。

「こっちが？」
開けた部屋に、２人で入った後にアクアが尋ねる。
「君の部屋」

アクアは手探りで照明のスイッチを探していた。その手に学生証を手渡しながら、ローズは「僕は隣」と言って、もう一枚の学生証をアクアに見せる。そこで部屋の明かりが点いた。
ローズの見せた学生証を見、自分の持つそれも確認して、部屋に上がり込んだ横顔を見る。

「よろしくね、青柳朋希クン？」
笑って言うと、振り向いた顔は思い切り寄せられた眉に、細められた目。

「…遠野浩一、か…違う大学？」
「そうだよ、あ、今まで通り、学科の授業は受けなくていいからね」
「ああ」
「総合科目だけだから退屈だろうけど、学科の授業は少人数だからマズい」
「うん」
「あとＣ大にはキャットも行くから」
「了解」

学生証をその手に持ったまま、アクアは部屋の奥に歩いて行く。
その、窓の外を眺めている背中をローズはしばらく観察した。

今、銃口を向けても、きっとこの男は振り向きもしないのだろう。

「アクア」

その名前はもう呼ぶな、と。言いたげな目がこちらを向いた。
ローズは満足そうに微笑むと「死なないでね」と念を押す。

「さあ」と返した声に、「それと、もっと大学生らしくしゃべって」と言った。

「俺、も、少し変えて話すから」

“俺”の部分を強めに言って、ローズはアクアの反応を見る。意外そうに眉を上げた、その表情が新鮮に思えて、また、笑えてしまった。

窓枠に腰掛けたアクアが、少し考えるように上を見た後、ローズを見る。
「俺はそんなに器用じゃない」

その言葉を嬉しく思う、自分のその反応をローズは楽しんでいた。
「知ってる」
「お前みたいには笑えない」
「遠野浩一」
「…遠野…」
「名前で呼ぼうか？」
「そういうものか？」
「多分ね」

笑顔のまま、「よろしくね、朋希」と言うと
「よろしく…浩一？」と、顔をしかめながらアクアが言った。

時間切れかな。

そう思い、「じゃ」と言って、ローズは背中を向けてドアを開ける。アクアは予想通り何も言わない。
そこで自分の中の声を訂正した。

アクアじゃなくて、“青柳朋希”だ、

ドールを捕まえるまでは、この名前で呼べる。

別の人間になるのは好きだった。自分を意識せずにすむからだ。考え込むことが好きじゃない。固められて、縛られてしまう錯覚に落ちる。

部屋を出て、“遠野浩一”になったローズは、アパートの通路から見える夜を眺めた。

柔らかく、家の窓から漏れる明かりに、不快感を覚える。

そこで暗い部屋の中で見た、アクアの、朋希の目の色を思い出した。

僕の好きな、

夜のような、目の色を。




赤い服と、黒い髪が無造作に乱れたまま、倒れている女はこちらを凝視しているように見えた。

黒ずんだ液体に顔が少し浸っている。

目は見開かれたまま動かない。

やはり、銃で撃つと汚くなる。

それだけがいつも妙に気になるのだ。

「アクア」

倒れた女を見下ろしていた、遠野浩一だった人間が口を開いた。

久しぶりに聞いた、“ローズ”の声。

「…これで終わりか？」

立ち上がって、床についていた膝を払う。
倒れている人間を見渡して、青柳朋希を名乗っていた、アクアに戻った自身が声を出した。

自分が撃ったのは何人だったか。黒服の男は合計で９人いた、そのうちの５人だ。相手が油断していたこともあるが、よく無傷で済んだものだ。

「サスガだったね」
同じように辺りを見渡しながら、ドールの膨らんだスカートを踏みつけて、ローズはアクアの方へと歩み寄る。手にした銃を左手と右手とに持ち替えながら「あ」と声を出した。
「そうそう、指紋だ」
「…触れた？」
「少しね」

どこかからか取り出した手袋をはめて、ローズはドールの方へと戻り、手に掴まれたままの銃を軽く拭う。

「大丈夫だと思うけど…どうかな」
「さあな」
「僕が死んだら、泣いてくれる？」
「多分無理だ」
ローズは、声を出して笑った。

「さて、と」と言って、立ち上がり、振り返った目と目が合う。

「何か聞きたそうだけど」
「警察は？」
「後で話すよ、そろそろココから離れないと」

話しながら近付いて来たローズは突然、アクアの横に置かれたままの椅子を足で蹴飛ばした。
予想しなかったその動きに驚いているアクアの耳に、不愉快な衝撃音が反響して届く。

アクアはそのまま出口に向かって歩いていく肩を思わず掴んでいた。
「何だ？」
「何が？」
振り返った顔は、見慣れたローズの表情だ。

いつも笑っているような顔で。

笑いながら、首を傾げて「行こう」と言う。

ドールと似てる。

一瞬、頭をよぎった言葉に、アクアは自分で驚いた。

肩を掴んでいた手はいつの間にか外されていて、その手首をローズに引っ張られていた。

何となく、その手を引き戻す。

「自分で歩ける」
「だろうね」

不愉快なふうでもなく、ローズは軽く言ってまた歩き出した。暗い通路に出たその背中を見てから、アクアは後ろを振り返る。

照らされた部屋の中は、見慣れてしまった黒く淀んだ赤い液体がやけに目立つ。

倒れている、人形のような白い腕。

これも、随分見慣れた色だ。

暗い通路に出ると、そこで待っていたローズの姿が淡い明かりで浮かび上がる。

薄茶色の髪と目も、この１年で必要以上に身近になった。

「どこへ行く？」

アクアの声に、ローズが答える。

「また、別の場所へ」

そう言って、笑った顔は、やはりどこかドールの笑顔を連想させた。


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